私は鳥居をくぐった。 いや、正確には、くぐらされた。 手動的に、強制的に。 拒否する間もなく、招き入れられてしまった。 もっとも、ここに来る前、火星にいたころから、遠隔通信でこの町の情報にはアクセスしていた。 住む予定の家も、すでに仮想環境上で用意されている。 だから「招かれた」というより、「予定通り到着した」と言うべきかもしれない。 だが、実際に鳥居をくぐった瞬間、世界の光が変わった。 一瞬で、昼が夕暮れに変わったのだ。 たった今まで、太陽は真上にあった。 それが、くぐった途端に――紫がかった、霞むような夕景に変わった。 「……なに、これ」 思わず呟き、外に戻ろうとした。 だが、足が止まる。 透明な膜のようなものが、私の前に張りつめていた。 まるでATフィールドのように、見えない壁が世界を分断している。 触れようとしても、そこには確かに境界がある。 外には出られない。 まるで、ゲームの未開発エリア。 背景だけが描かれ、プレイヤーは入ることができない場所。 そんな行けない領域が、現実のようにそこにあった。 私は首を巡らせ、霖に声をかけようとした。 「ねえ、リン」 だが、彼女の姿はなかった。 どこにも、いない。 さっきまで確かに、ここにいたはずなのに。 まるで最初から存在していなかったかのように、痕跡ひとつ残っていない。 あの短いやり取りが、もしかして私の幻覚だったのではないか――そんな錯覚すら覚える。 紫の夕暮れ。 霧のように柔らかな光が、あたりを包んでいる。 空気の粒子が、金星特有の重さで私の動きをわずかに鈍らせた。 その世界は、まるで遠い昔に読んだおとぎ話を、パステルの絵具で塗り直したような色合いをしている。 「……とにかく、進まないと」 自分でも驚くほど自然に、そう口が動いた。 まるで誰か――モニターの向こうのプレイヤーに指示されたかのように。 私は鳥居を背に、村の奥へと歩き出す。 「リン」 呼んでみる。 返事はない。 もう一度、声を張る。 「リン!」 風が吹き抜けるだけ。 名前を日本語の読み方で呼ばなかったせいかと思い、今度は漢字で、音を意識して発した。 「霖!どこにいるんだ!」 しかし、それでも返答はない。 諦めて、私は手首に巻かれたウォッチの画面を起動する。 ホログラム上に、居住地のマップデータを展開。 表示された私の家の位置を確認し、そこへ向かうことにした。 歩きながら、私はあたりを見回した。 家らしいものはまだ見えない。 道の両側には、草が無造作に伸びている。舗装はところどころ剥がれ、アスファルトとセメントが、まるで溶けかけたアイスクリームのように入り混じっていた。 足を踏み出すたびに、硬いのか柔らかいのか分からない感触が伝わってくる。 その道の両脇を囲うように、木々が続いている。 いや、あれは木なのだろうか。 遠目には柳のように見えたが、近づいてみると、枝には無数の金属片――まるでロボットの関節部品のような細かなパーツが葉のようにぶら下がっている。 葉脈の代わりに、光ファイバーが微かに発光していた。 木のふりをした何か。 並木というより、どこか機械的に等間隔で並んでいる様子は、コンベアベルトの部品列のようでもあった。 紫がかった霧が、次第に濃くなっていく。 私はその中を泳ぐように進んだ。 やがて三叉路に出る。 私は南東の道を選んだ。 そこからは、森が深くなる。 遠くに見えていた山や畑のような景色も、木々の壁に遮られ、完全に視界から消えた。 濃密な緑のトンネル。 日差しはほとんど届かず、かわりに、白熱球のような街灯が等間隔で立っていた。 その光はやや眩しすぎて、どこか人工の胃袋の中を歩いているような圧迫感を与える。 そして、ようやく――一軒の家が見えた。 森の奥、まるで金星のこの辺境の中でも、最も孤立した場所にぽつりと建っている家。 それが、私の新しい住居だった。 家は一階建て。 日本の伝統的な和風建築を模している。 広い居間、そして庭。 庭の半分は芝生で、もう半分は――信じられないものが咲いていた。 桜、だ。 ただし、それは“地面から咲く桜”だった。 木に咲くのではなく、土から花だけが咲いている。 まるで桜の花が根を持たないまま、地面そのものを花弁で覆い尽くしているような光景。 薄桃色ではなく、ほとんど白。 月光を溶かしたような白い花びらが、一面に広がっていた。 まるで“花の絨毯”というより、“地表そのものが桜でできている”ような錯覚すら覚える。 家の外壁は、和風の見た目を保ちながらも、素材はコンクリート製だった。 金星の環境にも耐える、特殊なアイボリー色の複合素材。 仕上げはわざと荒く、まだ工事の途中のようなざらつきが残されている。 それが逆に、どこか人間的な温もりを与えていた。 屋根には深いバーガンディ色の瓦が丁寧に組まれ、外壁の白と庭の桜の淡色が、絶妙な調和を成している。 古い日本建築の美と、異星の冷たさが混ざり合った――そんな不思議な建築美だった。 私は外観を一通り眺めたあと、庭に足を踏み入れた。 地面に咲いた桜を、踏みしめる。 花びらが機械のように静かに崩れ、足元で淡く光る。 痛みのない悲鳴を上げるように、花は潰れても形を失わなかった。 縁側――居間と庭をつなぐ細い木の通路のような空間――へ向かう。 そこに上がろうとしたとき、家の中から音がした。 私は立ち止まった。 息を呑む。 内部から、金属の関節が軋むような音。 待つこと数秒―― ゆっくりと引き戸が開く。 そこから現れたのは、一体のヒューマノイドだった。 ただし、それは“人間そっくり”というタイプではない。 さっき出会った少女――霖のような、人間と見紛うほどの機体ではなかった。 もっと、古い。 かつて“ロボット”と聞いて人間たちが思い浮かべていた、あの典型的な形。 ぎこちない関節。無機質な視線。 まるで博物館から抜け出してきた遺物のように、それは私の前に立っていた。 あまりにも機械的で、武骨なその外観に、思わず苦笑いが漏れそうになる。 けれど、相手が気を悪くするかもしれないと思い、ぐっとこらえた。 私の前に姿を現したそのロボットは、ゆっくりと顔をこちらに向けた。 顔といっても、そこに人間らしい表情は一切なく、黒いスクリーン状のヘルメットがあるだけだ。まるでバイク乗りのフェイスガードのようなその面が、無言のままこちらを映していた。 そして、人工的に平坦な声が響く。 「よろしくお願いします」 その言葉とともに、私はある異様なものに気づく。 ロボットの胸元にかかったエプロンには、鮮やかな赤がこびりついていた。 それは、乾ききった血だった。 まるで返事を促すように、もう一度同じ声が繰り返す。 「宜しく、お願いします」