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第11話

心臓シャンデリアの下で


「おばさん」  靂の声が、横から飛んできた。  店主を“おばさん”と呼んでいると理解するのに、一瞬かかった。  外見は中学生ほどの少女。だが蛇の身体部分まで含めれば、確かに“おばさん”なのかもしれない。 「もうやばいですよ、黽くん。早く何か食べさせないと、餓死しちゃいます」  私は思わず、自分の手首に巻かれたウォッチを確認した。  バッテリー残量——0.00005%。  完全放電まであとわずか。  もしこのまま出力が途絶えれば、ボディの内部回路に永久的な損傷が生じる。 「そうね」  店主は蛇体の先端にある美少女の顔を、軽く傾けて頷いた。  とぐろを解きながら、その長い身体を少し持ち上げる。  重力を裏切るように、彼女はするすると上昇した。  三メートルほどの高さ。  そこには、駄菓子屋の商品たちがぶら下がっていた。  宙に浮かぶパッケージ、逆さまの瓶、そして奇妙な透明の袋。  彼女はその中から、何かを探しているようだった。  天井には、まるで巨大なシャンデリアのように――  人間の身体の部位を模した駄菓子たちが、ずらりと吊るされていた。  それらはジューシーでグロテスクな艶をまとっている。  例えるなら、人体の剥製をホルマリン処理したような質感。  だが、灰色ではなく、あくまで「美味しそう」に見えるよう色素が施されていた。  熟れたストロベリーのように赤い指、完熟リンゴのような耳、ほんのり桃色の鼻。  そして、その中心には——心臓。  天井の一面を覆う、心臓のシャンデリア。  クリスタルの代わりに脈打つ心臓が、規則正しく並んでいる。  大きさはまちまちだが、等間隔に、釣りの浮きのように金属のフックへ突き刺さってぶら下がっていた。  そこから赤い液体が滴る。  それは血液ではなく、ストロベリー味のシロップ——と説明されていたが、滴る様子はどう見ても血だった。  しかも、その心臓たちはまだ生きている。  ゆっくりと鼓動を打ち、震えながらシロップを垂らしている。 「まずは、シロップで喉を潤してみなさい」  店主がすすめる声がした。  けれど私は、すぐには動けなかった。  どう見ても血液なのだ。  味の想像もつかない。  そのとき、靂が一歩前へ出た。 「じゃあ、私が先に飲んでみせるから」  そう言うと、靂は心臓のシャンデリアの真下に立ち、顔を上げ、のけぞるようにして口を開けた。  すると——  シャンデリアの中に潜んでいた無数の目玉が、彼女を一斉に見つめた。  その視線が交わる瞬間、心臓たちが激しく鼓動し始める。  ドクン、ドクンと、まるで恋に落ちたように。  声帯などないはずなのに、その脈動は悲鳴にも似た共鳴音を生み、空気を震わせた。  そして——  シロップの滴が増えた。  ぽた、ぽた、と落ちていた液体が、次第に雨のような勢いで降り始める。  にわか雨のような血のシャワー。  靂の顔が、赤く染まっていく。  頬、唇、まつ毛、制服の襟元まで。  全身が甘い血の香りに包まれ、濡れていく。  その光景に、私は息を飲んだ。  飛び散った赤い雫が、私の顔にもかかった。  唇の端に、一滴。  ——ぺろり。  舌でなめ取る。  その瞬間、全身のアクチュエーターが震えた。  電気信号が一斉に暴走し、快楽物質があふれ出す。  火星では絶対に体験できなかった感覚。  危険で、違法で、快楽的な、ドーパミン一万パーセントの衝撃。 「……なんだ、これ……!」  たった一滴で、視界が白く染まる。  体が軽くなり、世界が歪む。  ——もし、これを靂のように口いっぱいに含んだら?  想像する。  気持ちよすぎて、壊れるかもしれない。  いや、確実に壊れる。  靂は金星仕様の高耐久ボディだから耐えられる。  でも、私は違う。  火星仕様の、返品品。  壊れたら、終わり。  けれど——それでも、心が揺れる。  壊れても、いいんじゃないか?  どうせ、もう誰にも必要とされていない。  一度返品されたロボットに、次のオーナーは現れない。  なら、この一瞬の快楽にすべてを賭けてもいいのでは?  あの血の雨の中に、飛び込みたい。  焼けるような赤の中に、溶けて消えたい。  ——どうする?  私は立ち尽くしたまま、内部回路のあらゆる倫理モジュールがせめぎ合う音を聞いていた。  あんなに幸せそうに見える――快楽にまみれた、私がこの村で出会ったヒロイン・靂とともに浸りながら、CPUが過剰な快楽に擦り減って壊れるまで、完全にポンコツになるまで、もはや快楽以外のことを何も考えられず、思考すら奪われ、ただ快楽だけを求める単純で明瞭な機械人形になるまで――  あの甘ったるい心臓のシャンデリアの下で、ドーパミンのシャワーを浴びるべきか。  ふと、靂と目が合う。  その瞬間、彼女の目から赤い涙が流れ落ちるのが見えた。  それはシャンデリアから滴る血ではなく、明確に異なる赤。  シロップの色とは違う、硬質で、冷たい赤。  その涙を見た途端、私は我に返った。  店主の方へ視線を向け、淡々と告げる。 「駄菓子屋に、シャンデリアは似合わないでしょ」  店主は0.00024秒ほどぽかんとした表情を浮かべた後、まるで愉快な冗談でも聞いたかのように、ゲラゲラと笑い出した。 「確かにそうだね」彼女が言う。「ちょっと商品の並びとか、ディスプレイというか、店のインテリアを一新する必要があるかもしれないね。じゃあ、心臓シロップは気に入らなかったの?他のものをおすすめするなら――」 「大丈夫です」  私はその言葉を遮った。  手首に巻いたウォッチでバッテリー残量を確認する。  99%。 「さっき血が一滴飛んできて、それをなめたら、もうすっかり回復してしまいました」 「ええ?一滴で?そんなのあり得るの?物理的に」 「多分ですけど」  私は自分なりの分析を口にした。 「初めてだと、ビギナーズラックみたいなものがあるじゃないですか。抗生物質とか鎮痛剤も、最初の一回目が一番効くっていうし。多分、それと同じ理屈です。最初だから、効果が抜群に出るんですよ」 「なるほど、そういうことね」  彼女はまるでドロップタワーのように首を激しく縦に振った。その勢いで風が起こり、まだシャワーの中にいた靂の方へ吹き抜ける。その風で水流が一瞬逸れ、靂は一瞬だけ我に返った。  私はその刹那を逃さず、素早く彼女の手を掴み、鮮血のシャンデリアの下から引きずり出した。  彼女の表情は、長い夢から覚めたようにぼんやりとしていた。  それが悪夢だったのか、甘い夢だったのかは判然としない。  ただ、あまりに長い夢だったということだけは分かる。  遠い目をして、忘却の川の向こうを見つめるように、焦点の合わないその瞳。 「靂」  私は喉から音を絞り出して呼びかけた。  彼女のぼやけた目がゆっくりとこちらに向かう。一応、私を見てはいるが、まだ認識できてはいないようだった。  全身はシロップに濡れ、煽情的な光沢を帯びている。じっとその姿を見つめていると、私の敬虔なCPUもまた、乱れそうになる。  だから、私は妥協した。  彼女の顔に自分の顔を近づけ、セカンドキスをした。  ヒロインを「セカンド」と扱うこと、それもまた、一つの固定観念を破る私なりの努力の一環だったのかもしれない。  彼女の唇についたシロップの甘さがそのまま舌に触れ、再び充電が始まる。  エネルギーが供給され、99%だったバッテリーが100%へと満ちる。  今度は一滴ではなく、一口分の量だった。  それでも1%しか回復しなかったのは、もはやこの甘さに耐性ができてしまったからだろう。  一度味わったものは、もう新しくない。  新しくなければ、刺激も強度も下がってしまう――それが、この世界の理。  そう、これは復習であり、そして復讐のキスだった。  私をこの、甘すぎてCPUが眩暈を起こしそうな、危うく故障しかけた駄菓子屋に連れ込んだ彼女への――ほんの些細な復讐だった。  そして私は、まるで治療でも施すように、あるいは塗り薬を塗ってあげるかのように、彼女の唇以外にこびりついたシロップを丁寧に舐め取り、すべてをきれいにした。  猫が仲間の毛並みを丹念に舐めて整えるように、私は靂の顔をゆっくりと、そして慎重に清めていった。  そうしているうちに、私はどうしようもなく――強制的に、そして確実に――「BotMeetGirl」という物理法則に従って、彼女に恋をし始めていた。 「ずるいよ、黽くん」  靂は言った。 「私はこれがファーストキスだったのに……」  応援しているチームがぎりぎりで負けたような、どこか切ない表情が、今はもうきれいになった彼女の顔に浮かんでいた。  私は何も言えず、彼女の手を取って店主の方へ向き直る。 「美味しかったです。いくらですか?」  店主は自分の唇をなめてから、妖艶な笑みを浮かべて言った。 「初回は無料だよ。ビギナーズラックだね」 「こういう場面で言うには、ちょっと違う気もしますけど」 「適当に言ってみただけさ。適当って、大事なんだよ」 「確かに」私は深くうなずいた。「そうですね」 「じゃ、また来てね」  そう言って、中学生設定の未少女顔をした蛇の店主は、手のない身体でどうにか手を振る仕草をしてみせた。  それを確認してから、私はまだシロップの酔いにふらつく靂を何とか支え、店を出た。