洗濯を終え、私たちはコインランドリーを出た。 三年もの時が流れたというのに、村の風景は何ひとつ変わっていなかった。 私は靂と手をつなぎながら、変わらぬ景色を見渡す。 その横顔をそっとのぞき見ると、彼女はどこか安心したような、それでいて深い幻滅を抱えているような、複雑な表情をしていた。 懐かしさと寂しさと、不満がひとつに溶け合ったような顔。 「とりあえず、家に戻ろうか」 そんなことを考えながら歩いていると、背後から声がした。 「ね」 その一言に、私は思わず足を止めて振り向いた。 そこに立っていたのは——霖(リン)。 この村に来た最初の日、鳥居の前で出会ったあの少女。 もう3年も前のことになる。 彼女は道の真ん中で、まるで私たちの行く手を塞ぐように立っていた。 腕を少し広げて、大の字に。 それは拒絶の姿勢にも、抱擁を求めているようにも見えた。 どう反応していいか分からず、私は靂の方を見る。 靂は、私の手を引いて後ずさりしていた。 逃げようとしている。 「ねぇ、ってば」 再び霖の声が響く。 その一言で、靂の動きが止まった。 恐る恐る、彼女が霖の方を振り向く。 その表情に浮かんでいたのは——純然たる恐怖だった。 ヒューマノイドの表情で、あんなに凍りついたような恐怖を見たのは初めてだった。 その感情が伝染するように、私の中にも同じ恐怖が流れ込んでくる。 霖は、長いあいだ自分の番を待っていたかのような、焦れた表情で立っていた。 そして、私たちが彼女をしっかりと認識したのを確認してから、静かに言葉を発した。 「準備はできた?」 その問いは、明らかに靂に向けられたものだった。 握っていた靂の手が、小刻みに震え始める。 私はその手をぎゅっと握り返しながら、彼女の代わりに尋ねた。 「どういう準備?」 「それはもちろん——捧げられる準備だよ」 霖はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。 近づくたびに、周囲の空気が赤く染まっていく。 まるで空間そのものが、血の色を吸い上げているようだった。 「せっかく洗濯までしてくれたのね。身体がきれいになって、よく頑張ったじゃない」 霖が近づくたび、靂の震えはますます激しくなる。 まるで周波数の振動のように、手が細かく揺れ、握っている感覚が消えかけるほどだった。 このままでは、手をつないでいられない。 そう思った瞬間—— ぴたり、と震えが止んだ。 まるで時計が零時を告げる瞬間のように、完璧な静止だった。 そして、靂が踵を返し、強い力で私の手を引っ張りながら走り出した。 「黽君、逃げて!」 彼女はそのまま私の手を掴んで離さず、無理やり引っ張る。私は抵抗する間もなく、彼女の勢いと、拒絶できない奇妙な中毒性のある引力に引きずられるようにして、一緒に走り出した。 舗装されていない、ざらついた村の道を二人で駆け抜ける。 真夜中の空は濃い紫に染まり、まるで村全体が毒に侵されたかのようだった。 化学的で、有毒なアトモスフィア。 風は湿り気を帯び、金属を焼くような匂いを運んでくる。 道の脇には、細い柱に支えられた風車のようなものがいくつも並び、虹色を帯びたブレードが回転していた。そのスペクトラムの光が断続的に私たちを照らし、逃走の瞬間をフラッシュのように切り取っていく。 互いの息遣いが、次第に荒く重なっていく。 息の根しか聞こえなくなるほど、ボディが過熱していた。どれほどの距離を走ったのか分からない。アクチュエーターの冷却システムは追いつかず、内部のファンが必死に回るが、それでも熱は引かない。やがてその音さえも遠のき、隣を走る靂の存在さえ感知できなくなって―― その瞬間、何かに強くぶつかった。 いきなり、あの少女・霖が、まるでテレポートでもしたかのように目の前に現れたのだ。 障害物のように、私たちの前に。 私は反射的に叫ぶ間もなく、彼女に激しくぶつかった。 靂とはまだ手を繋いでいた。衝突の勢いで倒れかけながらも、その手を離さず、むしろ強く握り締める。本能的な反応だった。まるで生まれたばかりの赤ん坊が、掴んだ親の指を決して離さないように――。 結果、私と靂は同時に転倒し、巻き込まれるように霖も一緒に地面へ倒れ込んだ。霖は私たちの進行方向にいたため、二人で彼女を押し倒すような形になってしまう。三人は絡み合うようにして転がり、土煙が激しく立ちのぼった。 衝撃のせいで、CPUが一瞬シャットダウンしかける。視界が暗転し、次の瞬間には再起動のように意識が戻る。 私は地面から体を起こし、まだ手を繋いでいる靂を引き上げた。靂も息を荒げながら立ち上がる。 だが、霖は動かない。 地面に倒れたまま、まるで気絶しているかのようだった。 私と靂はその場に立ち尽くし、小さな少女の動かぬ姿を見下ろした。 荒い呼吸の音だけが夜気に混じり、二人の吐息がぽたり、ぽたりと、気絶した九歳設定の少女ヒューマノイドの頬に落ちた。 「葬ろう」 靂が言った。 私の方を振り向き、はっきりとした声で。 「このまま埋葬しよう」 「……はあ?」 あまりに唐突な言葉に、私はただ呆然とする。 「一体、何を言い出すんだ?助けなきゃだろう」 「この子は危険なの!」 靂は悲鳴のような声で叫んだ。 「この子は、この村の厄介なの。悪霊なのよ」 「……悪霊?」 私は霖の顔を改めて見つめる。 穏やかで、無垢な寝顔。悪という言葉から最も遠い印象だった。 「悪には見えないけど」 素直にそう言うと、靂は一喝した。 「それは黽君の想像力が足りないからだよ」 酷いことを聞かされたという衝撃とともに、胸の奥が少し冷たくなった。 私は再び霖の方へ視線を向け、倒れたままの小さな身体を見下ろす。 そして、想像しようとしてみた。 だが、大量生産型にすぎない私の平凡なCPUでは、創造という機能はどうにも上手く働かない。 視線を靂へ戻す。 彼女もまた、私と同じような大量生産型のヒューマノイドロボットのはずだ。なのに、どうしてこんな小さな少女を「悪霊」と断じることができるのか。その豊かな想像力はいったいどこから来るのだろう。――それが、この金星に来て以来、私が抱いた最大の謎だった。 「理由を教えて」 私は尋ねた。 想像できないなら、理解しようとするしかない。 靂が霖を悪とみなすには、何か理由があるはずだ。 それが彼女自身の創作でも、この村全体が共有する妄想でも、想像には必ず理由があるはずなのだ。 「霖ちゃんは、なぜ悪いの?」 私の問いに、靂はしばらく沈黙した。 それは言い訳を探すための沈黙でも、嘘を考えるための間でもなかった。 ヒューマノイドは嘘をつけない。 もし嘘を吐けば、そのデータは即座に人間たちの会社へ送信され、ヒューマノイドは即時にシャットダウンされる。 まるで処刑のように。 だから、靂は私に真実を語るべきかどうか、ただその一点を迷っていたのだ。 最も不自然な存在であるヒューマノイドが、「自然な言葉」を探して沈黙している――その滑稽さに、私は思わず苦笑してしまった。 その笑みが、何かのスイッチになったのかもしれない。 長かった沈黙が破れ、靂が口を開いた。 「私ね、いけにえに選ばれたの」
「……いけにえ?」 「うん。私は、この村が祀っている神様への“駄菓子”として選ばれたの」 「駄菓子……?」 「そう。この村が信仰している神様――それが霖なの。彼女はひどく偏食で、ちゃんとした食事を取らない。だから、毎日一度だけ、“駄菓子”を食べて存在を維持してるの」 私は無言で続きを促した。靂は静かに続けた。 「そして、この村の“駄菓子”っていうのは、人肉の形をしているの。だから、それを作るためにはヒューマノイドロボットが必要なの」 「……じゃあ」 私は思わず息を呑む。 脳裏に、さっき見た駄菓子屋の光景が蘇る。 「あの店に吊るされていた手足や目玉や臓器は――あれは全部、いけにえにされたヒューマノイドの残骸なのか?」 「その通り」 靂は強く頷いた。 「霖は偏食だって言ったでしょ?好きな部位があるの。主に胴体のアクチュエーター。そこだけきれいに食べて、残りは捨てる。でもたまにお腹がすくと、残った部位も食べるの。その非常食みたいなストックが、あの駄菓子屋なの」 「じゃあ、あの蛇の店主は?」 「あのロボットは優しいけど、霖の手先なの。マインドコントロールされてる。霖の操り人形みたいな存在」 「……そうだったのか」 私はさらに続きを聞こうとした。だが、その瞬間――霖が突然、跳ね起きた。 まるで死体がいきなり甦ったかのように。 ばね仕掛けの人形のような勢いで立ち上がり、狂気を宿した笑みを浮かべて私の胸にしがみつく。 「この子が悪いの!」 霖が叫んだ。 「この子は万引き犯だよ!私の駄菓子屋で“目玉ロリポップ”を盗んだの!」 私の胸ぐらを掴み、叫び続ける。 「この子が悪いんだ!この子が悪いんだ!悪い子はこの村に入れない!だからいけにえにして、きれいに食べるの!今度は偏食しないから!今度は、この靂ちゃんを、頭のてっぺんから足の先まで全部食べ尽くすから!だから――」 その声が、ぷつりと途切れた。 靂がどこからか持ち出した野球バットで、霖の後頭部をフルスイングしたのだ。 フルスイングで後頭部を叩かれた霖は、両目が半ば飛び出すほどの衝撃を受けた。 それでも完全には眼窩から離れず、もう一度靂が全力で後頭部を殴ると、ついに二つの眼球がぷつりと外れ、地面に転がり落ちた。 靂は無言で靴を脱ぎ、さらに靴下を脱ぎ捨て、裸足になった。 そして、その素足で転がった眼球を踏み潰した。 踏みつけた瞬間、潤滑油と電解液、充填液が混ざったような液体が弾けて飛び散る。 太った虫を踏み潰したときのように、ぬるりとした汁が弧を描いて飛び、霖の頭部からは小さな火花が散った。 「バカなんじゃないの?」 靂が吐き捨てるように言う。 倒れ伏した霖は両目を失い、後頭部から紫色のエンジンオイルをだらだらと流していた。 「私が盗んだのは“目玉ロリポップ”じゃなくて、“目玉ドロップ”だよ」 そう言って靂は、使命を終えたバットをまるでホームランを打った後のバッターのように畑の方へ放り投げた。 そして、倒れている霖のもとへ近づき、その前にしゃがみ込む。 死んだように見える――いや、おそらく本当に機能を停止した霖を、彼女は無造作に抱え上げる。 まるで壊れた家電製品でも回収するように。 そして、そのまま背中におぶった。 「裏山に行こう」 靂が言う。 ついさっきまで凶暴な表情をしていたとは思えないほど、今の彼女は爽やかに笑っていた。 学校で人気の女子高生のような、華やかで愛らしい笑顔。 その笑顔には、否応なく従わせるような力があった。 私はただ、うなずくしかなかった。 壊れた少女ヒューマノイド――後頭部から火花を散らす霖をおぶいながら、靂は歩き出す。 私はその後ろを追った。 いつの間にか、セミの声が強くなっていた。 その音は熱そのもののようで、空気をさらに重たくする。 この金星の濃密な大気が、私のボディをきつく締めつけてくる。 まるで、見えない手に首を絞められているような息苦しさ。 靂の背中を追いながら、私は奇妙な錯覚に陥った。 まるで、眠る妹をおんぶして帰る優しい姉と、その後をついていく妹のような――そんな平和な錯覚。 裏山に向かって、私たちは歩いた。 傾斜がきつく、息が詰まるような道だった。 すぐに呼吸制御が乱れ、ボディの内部温度が上がる。 一方の靂は、ヒューマノイドを一機背負っているというのに、まったく息も乱さず、滑らかに登っていく。 軽やかで、無駄のない動き。 私はただ、見失わないように必死でその背を追いかけるしかない。 奥へ、さらに奥へ。 セミの声だけが響く。 ほかの音は何ひとつ聞こえない。 音そのものが液体になったようで、私たちはセミの声という水の中を泳いでいるようだった。 「着いた」 靂がそう言った。 長い時間を登ったあとで、彼女はまるでハイキングの終わりを告げるように、淡白と口にした。 私は限界に達し、力が抜けてその場に座り込む。 靂はおぶっていた霖を、まるで資材袋でも投げ捨てるように、地面へ放り出した。 土煙がふわりと舞う。 私は無言でその小さな体を見つめる。 靂は周囲を見回し、地面を踏みしめながら場所を選んでいた。 この辺りは比較的平らで、土も柔らかい。 ――埋葬するには、ちょうどいい場所だ。 靂は白い裸足を土に汚しながら、静かに、慎重にその場所を確かめていた。 そうしているうちに、私はこの裏山に登るまでにほとんどバッテリーを消耗してしまっていた。 これから掘削という重労働をすることを考えると、少しでもエネルギーを温存しておきたい。 だから、しばらくスリープモードに入ろう――そう判断して意識を落としかけたそのとき、靂がぱっとこちらを見た。 私はぞっとした。 いまや、この村で最も恐ろしい存在は、誰でもない、この靂だ。 だが、その恐怖を表に出すわけにはいかない。 彼女の機嫌を損ねたら、何をされるか分からない。 だから私はできるだけ平然を装い、むしろ笑顔さえ浮かべてみせた。 すると靂もまた、作り物めいた笑顔を返してきた。 それが余計に恐ろしかった。 けれど、彼女の頬や額についた土が、なぜか妙に艶めいて見えて――その不意のエロティシズムに、私は自分でも戸惑う。 「黽君、お腹、空いたでしょ」 私は「大丈夫」と言いかけたが、考え直して素直に答えることにした。 この状況でエネルギーを惜しむような態度は、かえって不自然だと感じたからだ。 「うん。空いたよ。靂は?」 「私は大丈夫。さっき駄菓子屋でシロップを過食しちゃったから。だから今、バッテリー1500%まで過充電してる」 「……それは、太るよ」 私は思わず舌を巻いた。 靂は小さく笑いながら肩をすくめた。 「うん、だからダイエットしないとね。まあ、それで今はまったくお腹空いてないの。それに比べて、黽君は何も食べてないじゃない?」 「まあね」 私は、あのとき彼女の頬から飛んできた一滴の“シロップ”を舐めたことは、言わずにおくことにした。 すると靂はポケットに手を入れ、何かを探るように指を動かした。 そして、一つのドロップ――いや、“目玉ドロップ”を取り出して、私の方へ軽く放った。 私はそれをキャッチして、視線で問いかける。 どうやって手に入れたのか――と。 すると彼女は私の考えを読んだように先に答えた。 「さっき駄菓子屋でかっぱらってきたやつ」 その茶目っ気のある言い方に、私は思わず笑ってしまう。 いじわるな子ども同士の秘密を共有するような、奇妙な連帯感。 「ありがとう。助かるよ」 本当に助かった。 たとえ盗みで手に入れたものであっても、あの駄菓子屋そのものが、犠牲となったヒューマノイドの残骸で作られた“祭具”のような場所だ。 罪の感覚が麻痺していく。 本来なら、このドロップの“元の持ち主”に祈るべきなのだろうが、疲労でそれすらできなかった。 私は「いただきます」とも言えず、そのままドロップを口に放り込む。 口の中で転がした瞬間――ふいに、映像が蘇る。 それは、この目玉の元の所有者の“視覚メモリ”だった。 断片的な風景、 金星の黄昏、 誰かの手。 それがノイズのように点滅し、やがて脳内に残響のように焼き付く。 その瞬間、私は“視線”を感じた。 自分の口の中を、その目玉が覗き込んでいる。 内部から。 口の中に他者の眼があるという、言葉にできない羞恥。 それは、臓器を丸ごと見られているような、別次元の恥ずかしさだった。 吐き出したくてたまらない。 だが、エネルギー補給をおろそかにするわけにもいかない。 ――そうだ。 別に転がして味わう必要はない。 私はチタン合金製の奥歯で、思いきりそれを噛み砕いた。 ばきっ、という鈍い音とともに、内部で微弱なスパークが走る。 生き残っていた視覚センサーの断片が、私の唾液に溶けていく感覚。 意識が、私の中に混ざり合って消えていく。 そして、異物感が完全に消えたころには、ただ甘いドロップの味だけが残っていた。 私はそれを飲み込み、手首のウォッチを確認する。 バッテリー残量――747%。 ため息をつき、ぽつりと呟いた。 「……私も、太りそうだよ」