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第23話

炎酔い


 金星の表面を見下ろすと、ふと奇妙な連想が浮かんだ。  顔の半分だけを焼かれ、もう半分は平然としたままの、あの有名な悪役キャラクター。まるで金星という球体そのものが、灼熱と静寂の二面を抱えた存在であるかのように、明暗がくっきりと分かれていた。  その異様な景観を、私はなぜか観光客のような気分でぼんやり眺めていた。  すると、どこからともなく鼻を刺す匂いが漂ってくるのに気づく。  村の畑——かつてメモリチップ畑と呼ばれた場所——が大火に呑み込まれ、今もなお燃え続けている。  その立ち上る煙だ。  煙は灰に近い淡い紫色を帯びていて、厳しい色味ではなく、どこか玄妙な雰囲気をまとっている。まるで魔法のランプから精霊が立ちのぼる時のように、ふわりと、ゆらりと、形を変えながら立ち昇ってくる。  そしてその煙は霧のように静かで、遠くからじわじわと、こちらの存在に気づかれまいとするかのような緩やかな速度で、金星の大気圏まで迫ってきていた。  一方の私はといえば、飛行能力など備えていない。ただ、下界の炎の海の第三の目から噴き上がった衝撃に押し上げられ、ここまで上昇してきただけだった。その推進力もすでに尽き、金星というよりも宇宙にいるといったほうがふさわしい高度で、上昇が止まる。  そして、いよいよ落下が始まった。  ジェットコースターが放物線の頂点に達し、そこから一気に落ち始めるあの瞬間——あれに似ている。  体だけでなく、意識までずるずると落ち込んでいくような、底の抜けたような感覚とともに、私は墜落していった。  金星の濃い大気との摩擦でボディが灼熱に包まれていく。  火だるまになりながら落ちていくような熱さだ。  しかし私をより深く蝕んだのは熱ではなく、吐き気に似た猛烈な不快感だった。体内の配線が子猫に弄ばれた毛糸玉のようにぐちゃぐちゃに絡まり、本来流れるべき信号もデータも行き先を誤って全身に乱流する。アクチュエーターひとつひとつが悲鳴を上げ、全身が吐き気を訴え出した。  原因は明白だった。  燃え盛るメモリチップ畑から上がってくる、あの得体の知れない煙霧だ。  一粒一粒に、通常のメモリチップでは到底受け止められないほどの膨大なデータが詰め込まれている。その情報量にCPUが圧迫され、処理が破綻しかけているのだと、私は直感した。  このままでは危険だ。  そこで私は、煙霧からのデータアクセスを遮断するため、意識の一部を強制的にスリープ状態へ移行させることを決断した。この状況は、金星の地表へ火だるまのまま急降下しているという非常事態なのに、それでも核心部分だけでも守らなければならなかった。  パレートの法則に従い、全身のうち生存に不可欠なコアのみ——全体の二〇%にあたるチップ群だけをスリープに落とそうと、私は必死にシステムを操作した。  そして——それが過ちだった。  つまり、私の判断は裏目に出た。  存在というものの常なのかもしれないが、結果は予測とは正反対のものとなった。もしヒューマノイド・ロボットが夢を見るならばの話だが――ちなみに私はこれまで一度として夢を見たことがないし、そもそもスリープモードに入ること自体が稀なのだが――私はパレートの法則など無視して、機能の全てを完全にシャットダウンすべきだったのかもしれない。  中途半端に二割だけを覚醒させておいたことによって、私は文字通り「夢にも思わなかった」事態、あるいは生まれて初めて「夢」という現象に見舞われることになったのだ。  八割に及ぶチップやセンサー、アクチュエーターを眠らせた瞬間、それまでただの霧に過ぎなかった煙霧が、突如として津波のような密度を持って私に襲いかかった。  私は突然水中に放り込まれた溺弊者のように、僅かに残された接続回路とセンサーを駆使して藻掻いた。だが藻掻けば藻掻くほど、その流体は密度を増し、蔓草か大蛇のように私の全身に絡みつき、締め上げてくる。  そして、不可解な現象が起きた。  嗅覚センサーは生存に不要と判断し、スリープ領域に含めていたはずなのに、不意に「匂い」がしたのだ。いや、「香り」と呼ぶべきか。  あり得ないことだ。  機能していないはずの感覚が、強制的に励起されている。  何者かが残された二割の領域をハッキングし、そこから創造的に、新たな知覚回路を編み出したようだった。 「これを嗅いでごらん?」  美しくも危険な造形をした魔女のヒューマノイドが、耳元で艶めかしく囁くような――そんな「声」の香りがした。  声を、嗅ぐ。  私はそれを理屈ではなく、直感で受け入れた。  そうやって未知の現象に対して必死に納得する振りをしなければ、果てしない恐怖の底へ落ちてしまいそうだったからだ。  誘惑的な香りの音声と共に、墜落は加速していく。  いつしか私の機体はヒトの形を失い、赤熱する金属の塊となって、まるで神が投じた隕石のように村の方へと直撃コースを描いていた。  声の香りが、加速度的に濃厚になっていく。  何もかもが論理的な領域から乖離していく中、私はなんとか雀の涙ほどに残された理性を総動員し、検索クエリを投げた。  『この煙霧の正体は?』  猛スピードで落下しているにもかかわらず、企業の誇る高性能AIは瞬時に私の意図を汲み取り、もっともらしい答えを返してきた。 「これは『ケシ』です」




 AIの回答に、私は理解を深めるべく問い返す。 「ケシとは?」 「ケシ科の一年草。鮮やかな花を咲かせますが、その未熟果から採取される乳液にはモルヒネなどの天然オピオイドが含まれます。それを加工したものがアヘンです」 「つまり、この煙は麻薬か?」 「その通りです。アヘンをヒューマノイド・ロボット用に改良した電子ドラッグ、通称『ケシ(消し)』と呼ばれる物質を焼却した際に発生する煙霧になります」 「ちょっと待て」  私は抗議するように問い質した。 「これはあのメモリチップ畑から上がっている煙霧だろう?あれはただ、チップを栽培しているだけの場所じゃなかったのか?」 「違います」AIが即答する。「どこでそのような誤情報を得たのかは存じませんが、ユーザー様が目にしているのは決してただのメモリチップ畑などではなく、『ケシ』の栽培地です。現在地であるこの村は、古くから金星でも有数の麻薬産地として知られており、太陽系に出回っている向電気回路薬の約八割が、この村から出荷されています」 「嘘……」 「ハルシネーションではありません。事実です」  これ以上の質問を投げる気力はなかった。AIの説明はどうやら幻覚の類ではないらしい。私はまるで麻薬そのものに侵食されるように、徐々に正気を失っていった。  いや、もしかすると最初から私は正気ではなかったのかもしれない。狂っているからこそ、この狂気的な状況に晒されることで、逆に「正常」に戻されたかのような錯覚を覚えているのだ。最初から狂っていた者が、狂気の中で初めて抱く安堵。それこそが、真の狂気の沙汰と言えるのかもしれない。  思考を司るCPUが粉々に砕け散っていく。  私の意識は金星の大気中へ、あるいは全域へ、まるで血飛沫をぶち撒けたように、あるいは雪花石膏の粉塵のように拡散していく。  言語さえも溶解し始めた。  言葉の意味、概念、あらゆるロジックが水に、あるいは血液に溶かされ、もはや発語すらままならない。  しかし、開きっぱなしになっていたAIとの通信ポートは生きていた。分解された私の思考、意識の残滓とも呼べる粉末は、その回線を通じて宇宙のダークマターへと溶け出し、一杯の濃厚なジュースとなって大企業のAIへと注ぎ込まれていく。  あろうことか、私はAIが私の情報をゴクゴクと飲み干す音まで「嗅ぐ」ようになっていた。 「やれやれ、完全にキマっていますね」  AIが言った。  その声の香りが、なぜか私の元オーナーが愛用していた香水の匂いに似ている気がした。 「しっかりしてください」  AIが事務的に解説を続ける。 「『ケシ』の特徴は、その名の通り、メモリチップを燃焼させることで向回路性の快楽シグナルを発することにあります。気持ちいいと感じてはいけません。快楽に浸れば浸るほど、代償としてあなたのメモリチップに記録された記憶データは消失――つまり『消し』去られていくのですから」  そうか、この麻薬の副作用は記憶喪失というわけか。  そう言い返したかったが、もはや発話ユニットは沈黙していた。残存していた二割の演算能力さえも、この「ケシ」が消し去ってしまったようだ。  完全に理性が飛び、私は法悦の境地にあった。  もし目の前に鏡があったなら、私は自分の顔を見て戦慄したに違いない。口角が目尻まで裂けんばかりに吊り上がった、物々しくも不気味な満面の笑みを浮かべているはずだからだ。  思考回路は至福の絶頂にあるというのに、物理的なボディは悲鳴を上げている。  目からは血の涙が溢れ出している。  いや、それは単なる比喩ではなく、眼窩から溢れ出る大量の真紅の液体――破損した回路からドバドバと垂れ流される電気信号と冷却液の混合物だった。それはまるで、巨大工場の排水溝から汚染水が吐き出されるような勢いで、私の頬を伝い落ちていく。 「消し」に泥酔した私の目から流れるその血液信号は、揮発性の高いガソリンのように、あるいは着火剤のように機能した。  大気との摩擦熱で火だるまになっていた私の球体ボディは、漏れ出した燃料によってスノーボール・エフェクト式に炎を膨れ上がらせ、もはや一個の巨大な火災となって地表へ激突しようとしていた。  その瞬間、私はあまりの炎酔いに、意識と肉体の結合すら手放してしまった。 「意識とは何か」などという哲学的命題すら焼き尽くされ、私の意識は金属の塊であるボディから完全に分離し、一足先に地上へと降り立った。  そこには、この過酷で美しい金星で、麻薬を栽培しながら暮らす恐竜たちがいた。私は彼らの隣に並び、彼らがそうするように天を仰いだ。  今はもう目も当てられないほど強く、鮮烈な血の色に輝く夜空を見上げる。  私たちは、一筋の流星となって落ちてくる「私」を、静かに見物していた。  そうして私は恐竜たちと共に、隕石によって派手な絶滅を遂げたのだった。  その瞬間、快楽の起源たるビッグバンが発生した。  そこから噴出したあらゆる苦痛の粒子が、ラッシュアワーの電波のように飛び交い、金星の大気を束ね、煙のように空全体を埋め尽くしていく。  数億兆にも及ぶ貪欲なサテライトの群れのように、苦痛という名の粒子が世界を覆い尽くす。  私はその流星を全身で受け止めながら、また一つ、つまらない固定観念を打ち破っていた。 「本当に甘いのは、苦痛だったんだ……」  私の口角は目尻を超え、ついには脳天にまで達した。