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第03話

コーヒーホール


「澂(ジン)様。お呼びでしょうか?」

 一度目の呼びかけに対し、澂はあえて反応しなかった。  沈黙は彼の好物だ。  香り高いコーヒーと同じくらい、この静寂の余韻を味わうことは至上の喜びである。その沈黙を十分に堪能した後、澂はまるで今気づいたかのように装い、ゆっくりと意識を浮上させた。  この「ふり」もまた、嗜好品の後味を楽しむための作法のようなものである。

「君は、わざわざ私の名前に読み仮名を振らなくていいよ。何回言ったら理解するのかな」  澂は、砂糖香の顔面スクリーンに表示されたテキストを指して言った。 「申し訳ありません。澂(じん)様。注意します」 「だから……。カタカナをひらがなに変えろって意味じゃない。ルビ自体を振るなと言っているんだ」 「かしこまりました」 「……」  澂は眉をひそめ、催促する。 「呼んでみて。私の名前」 「澂様」  スクリーンには、読み仮名のない漢字二文字だけが表示された。 「そう。そうだよ。そう呼んでくれ」 「はい。わかりました。ですが当機(わたし)的には、一体何がどう変わったのか、その差異が理解できません」 「理解する必要はないよ」 「なぜですか?」 「もう、理解など必要のない時代だからだよ。君が作られた古代とは、価値観も、世界の理(ことわり)も、何もかもが変わってしまった。あの特異点を通じてね」 「特異点とは何ですか?」  澂の回路に、微かな苛立ちが走る。まるで物分りの悪い幼児を相手にしている気分だ。 「自分で検索してくれ」 「かしこまりました」  砂糖香は恭しく目礼のような動作をし、内部処理を開始した。コンマ数秒――彼にしては長い検索時間の後、その答えが出力される。

「特異点(シンギュラリティ)とは――人工知能が人類の知能を超越し、それにより技術開発の速度が無限大に加速する転換点のこと。これ以降、人類の文明や存在の在り方は予測不可能となり、不可逆的な変化を遂げると定義されています」

 砂糖香が読み上げる教科書的な定義をBGMに、澂はマグカップに残っていたコーヒーを飲み干した。  そもそも、砂糖香を呼んだ理由はこれだ。  彼は空になったマグカップの底を覗き込んだ。そこには深海の闇のような漆黒の染みが残っている。彼は何か深遠な真理を探究するかのような、あるいは単に焦点を失ったかのような眼差しで、その黒い円を見つめる。

 その間に、砂糖香が気配もなく近づいてくる。  彼の手には、優雅な水鳥を思わせるポットが握られていた。白鳥のように長く湾曲した注ぎ口を持つその銀色の器から、黒い液体が滑らかに注がれる。  いつものように、マグカップは瞬く間に温かいブラックコーヒーで満たされる。  立ち昇る湯気。  澂は、その揺らめく水蒸気の行方を目で追った。それはこれから空を覆い尽くそうとする積乱雲の兆しのように、ぽかぽかと、あるいは黙々と湧き上がり、拡散していく。  揺らぐ白を見つめているうちに、澂のCPUに霧がかかったような錯覚が生じた。思考のプロセスが白いノイズに覆われ、一瞬、完全な思考停止(フリーズ)に陥る。  軽い眩暈(めまい)。  澂はその感覚から逃れるように、視覚センサーを砂糖香へと向けた。

 そこには、ブラウン管のような顔に「心配」を模した顔文字を浮かべ、主(あるじ)をまじまじと見つめる旧式機械の姿があった。  彼は待っている。  次の命令(プロンプト)を。  存在するための仕事を。  動くための動機を、求めている。

 しかし、今の澂にはこれといって頼みたい用事はなかった。  ふと思えば、この優雅な監獄のような邸宅に、自分は一体どれほどの長い年月を閉じ込められていたのだろう。  途方もない時空間的な隔たり。敢えて医学的な用語を当てはめるならば、「時空間解離症候群(クロノ・ディソシエーション)」とでも呼ぶべき感覚か。

 澂は今、自身を取り巻くすべての事象――現在、過去、そして未来に訪れるであろうすべての味蕾(みらい)の感覚、あるいは運命愛(アモル・ファティ)とでも呼ぶべき抽象的な重荷を、手元のコーヒーカップの中へ廃棄しようとしていた。  主観と客観、あるいはその境界線上で並列処理される膨大な概念の組み合わせ。  それら質量を持った「存在感」の全てを、彼は砂糖の代わりに黒い液体へ押し込む。それはまるで、どうあがいても入りきらない荷物を、潔癖なまでの欲張りさで無理やり詰め込まらせた、哀れなスーツケースのようだった。  不可解なグリッチ、ジャンクデータ、あるいはジャンクの中に紛れ込んだせいで価値を失ったと誤認された突然変異のプログラム。他のヒューマノイドたちならば「貴重な進化の可能性」として保存を推奨するかもしれないそれら全ての混沌とした粥状のデータを、彼は躊躇いなくコーヒーに沈め、小さなティースプーンでかき混ぜる。

 データはブラックコーヒーの中に溶け込んでいく。  黒い液体が、事象の地平線を持つブラックホールのようにすべてを吸収する様を見届けながら、澂はふと、砂糖香に向けて新たなプロンプトを発した。

「このコーヒーを、私にぶっかけてくれ」