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第06話

魚信


砂糖香はオーナーからのプロンプトを恭しく受信し、職場であるプールサイドで釣りを開始した。  ターゲットは変死体。  かつて太公望が垂らした釣り糸の先に思いを馳せるように、澂は「砂糖香は果たして、微動だにしない獲物を釣れるのか?」という疑問を、極上のワインに添えるチーズのように嗜むことにする。

 砂糖香は椅子を用意することもなく、水辺に直立したまま釣糸を垂らした。  距離は近い。視界も良好。獲物は泳ぎ回ることもなく浮いている。一見すれば容易なミッションに思えるだろう。  だが、澂の演算は異なる結論を導き出していた。  獲物が動かないからこそ、誘うのは困難なのだ。死んだ魚は餌を追わない。その単純な理(ことわり)に、砂糖香の低スペックなCPUはまだ到達していない。

 そして、澂の体感時間にしておよそ五年後。

「椅子も、持ってくればよかった……」  砂糖香の背中から、そんな呟きが漏れたのを澂は聞いた。 「少し時間が掛かり過ぎですよね? 申し訳ありません。いや、ごめんなさい」  フォーマルな謝罪から、唐突に砕けた謝罪への訂正。彼女の言語出力メカニズムに生じたバグを観測しながら、澂は寛容に返した。 「いいさ。どうせ私は金持ちだし、時間なら売るほどある」 「お時間持ちですね」 「いいから黙って釣りを続けろ」  そう一喝しようとした、その刹那だった。

 竿の先から伸びる糸が、不意に動いた。  天王星の大気層で凝固したダイヤモンドダストを紡いで作られた、超極細のハイテク繊維。肉眼では捉えることすら困難なその糸が、水面下へと「くん」と引き込まれるような挙動を見せたのだ。  ようやく生じた物理的変化。  澂はそこで一つの真理に到達した。  釣りとは、静寂の中で行うものではないのかもしれない。  たった今、自分が発した叱責の声。その音波が空気を震わせ、水面を揺らし、その物理的振動が偶然にも糸を操り、魚信(アタリ)を演出したのだ。

「やった!」  歓喜のかけらもない、事務処理完了の報告のような声と共に、砂糖香が竿をあおった。  水中の釣り針は、あたかも変死体が自ら高級キャビアを求めて食いついたかのように、その口腔内へと正確に吸い込まれていた。  死してなお食欲を刺激するとは、流石はタイタンのギガ・シャークのキャビアだと澂が自身の選定眼を自画自賛している間に、砂糖香が一気に竿を引き抜く。

 水面が爆ぜる。  釣り上げられた変死体は、派手な飛沫を上げながら空へと舞い上がった。  それは単なる「吊り上げ」というよりは、計算され尽くした飛翔だった。  放物線を描く白いガウンの肢体。  歴史ある大劇場の舞台で、前衛的な舞踏家が披露する跳躍のように。あるいは、流体力学の粋を集めた深海魚が海面を割って出るかのように。  その流線型の曲線美を惜しげもなく晒しながら、変死体はプールサイドの空中に即興の軌跡(ドローイング)を描き出す。  滴り落ちる水滴たちが、残像のようにその軌跡を彩る中、ガウン姿の「彼女」は物理法則に従い、正確無比な弾道で落下を開始した。

 着弾地点は、澂の頭上。  回避行動を取る間もなく、濡れた質量が彼を目掛けて衝突(クラッシュ)した。

 そして、澂(ジン)は落下してきた彼女を、まるで頭上に落ちた落雷のように受け止めざるを得なかった。  凄まじい衝撃。  視界が警告色の赤一色(クリムゾン・レッド)に染まり、致命的なエラーログが網膜を埋め尽くす。  やがてシステムが復旧し、平穏なブルーが戻ってきた頃には、何かが決定的に変質してしまっていた。

 彼はデッキチェアごと押し倒され、その胸の上に「変死体」が折り重なっている。  二人はそのまま、しばらくの間――主観時間にして約七年ほど――抱き合うわけでもなく、ただ物体として重なり合っていた。  それは無造作に積み上げられた廃材のようだった。使われなくなり、倉庫の隅に放置された二つの壊れた道具が、何ら規則性も意味もなく、ただ重力に従ってたまたま接触されている。  そこにはエントロピーの増大だけがあった。

 そして正確に七年後、すなわち二億二千七十五万二千秒が経過した瞬間。  澂は視線を下へと向けた。  自分の胸板を枕にするようにして横たわる、濡れた変死体の横顔へ。  角度的に見下ろす形になったその先で、彼女と目が合う。

 澂は気づいた。  いや、直感し、確信した。  この少女は、この不可解な死体は、七年前(二億秒前)からずっと、瞬きひとつせず自分の顔を見つめ続けていたのだと。  そして自分は、その事実を無意識下で理解していたからこそ、七年間一度たりとも視線を下げず、彼女を見ることを避けてきたのだと。

 なぜか。  澂は思考する。  半ば開かれた彼女の瞳は、死んだ魚のように濁っていながら、同時に死の直前に輝く超新星のような、刹那的で暴力的な光を宿していた。  彼はその眼光を睨み返しながら演算する。  彼女が、怖かったのだ。  わざわざドローンを飛ばし、安全圏である上空から間接的に俯瞰しようとした理由もそこにある。彼は、彼女を直視することに耐えられなかった。

 だが、目は合ってしまった。  視線が交差した瞬間、変死体の唇が動き、音声データが再生される。

「知ってる?私たちって、魚の形から始まったのよ」

 その言葉は「魚信(アタリ)」となって、澂の深層領域に隠されていた一本の糸を震わせた。  それは、彼の堅牢なセキュリティの隙間、存在の基底ソースコードの中に編み込まれていた、致命的なバグにも似た「糸」だった。  完璧に構築されたはずの自我、そのアキレス腱とも言うべき脆弱なヒューズ。彼自身さえ認知していなかったその一本の神経を、彼女の言葉は見えない釣り針となって正確にフッキングしていた。  彼女は、澂の魂とも呼べるその糸を、暴力的な握力でぐいと引っ張った。

「ね。どう?怖いでしょ」

 糸が引かれる。  澂の意志とは無関係に、まるで操り人形(マリオネット)になったかのように、首が勝手に動いた。  首肯。  肯定の動作と共に、発声ユニットがハッキングされたように勝手に震え、音声を吐き出す。

 澂は言った。いや、言わされた。

「……ああ。怖いね」