「撤去のこと、聞いた?」
悠人が切り出すと、蒼大と芽生が相次いで口を開いた。
「ああ。電話で一方的に通告された」
「私も同じ。いきなりだった」
『兄妹の部屋』の空気は、かつてないほど重く沈んでいた。
「これからどうするんだよ」蒼大が苛立ちを隠さずに言う。「やっぱり、やめさせるべきだろ」
「いや」悠人は首を振った。「俺たちに何の相談もなく勝手に決めたんだ。最初からこちらの意見を聞くつもりなんてないんだろう」
「じゃあ、どうすればいいの……?」
芽生の顔には、不安を通り越し、怯えの色が浮かんでいた。そんな彼女を安心させるように、悠人は柔らかな声を出した。
「大丈夫。ここがいつかなくなるかもしれないっていうのは、みんな心のどこかで覚悟していただろ?」
二人は肯定するように、ゆっくりと視線を落とした。悠人は言葉を継ぐ。
「むしろ、いい機会かもしれない。どのみち『兄妹の部屋』だけに頼るのには限界があった。これからもずっと三人で一緒にいられる、より確かな方法を構築しなきゃいけないんだ」
次に来る言葉を予感したのか、二人の表情がさらに険しくなる。悠人は身を乗り出し、円卓の中心へ向かって重々しく告げた。
「一つの次元に、集まろう」
「…………」
「三人のうち二人が自分の属する次元を捨て、決めた一つの次元に身を寄せる。そうすれば、この現象がいつ消えるかに怯えることもなく、ずっと一緒にいられる」
二人に驚きや浮ついた様子はなかった。悠人がそうであったように、二人もまた、この方法を以前から密かに考えていたのだろう。
「でも……」芽生が震える声で言った。「悠人兄ちゃんが何度も言ってた、あの『境界線』はどうなるの? 結局、それを越えなきゃいけないんだよね?」
「そうだ」蒼大も加勢する。「他の次元に悪影響を与えるかもしれないからって、お互いの世界に足を踏み入れるどころか、情報の共有すら避けてきたじゃないか」
「ああ、その通り」
悠人は素直に認め、静かに語りかけた。
「他者の次元に渡ることで、何らかのバタフライ効果が生じるかもしれない。だけど、それはあくまで仮説に過ぎない。何かが起きるかもしれないし、起きないかもしれない」
「今まであれほど『越えるな』って言ってきたくせに……」
蒼大の不満げな呟きに、悠人は真っ向から答えた。
「今までは、な。だが状況が変わったんだ。俺たちを繋いでくれた唯一の場所が、二週間後には取り壊されて消えてしまうんだよ」
「でも、やっぱり……少し怖いかな」
芽生が口ごもるのを、悠人はなだめるように遮った。
「大丈夫だ。芽生が持ってきた食べ物を俺や蒼大が食べたときも、何も起きなかっただろ? 食べ物が平気なら、人間だってきっと大丈夫なはずだよ」
それでもなお難色を示す二人に、悠人はしばらく間を置いてから、穏やかに言い渡した。
「わかった。じゃあ、お前たちが決めてくれ。一人でも反対するなら、俺はそれに従う。このまま静かに別れるか、それともリスクを冒してでも三人でいる道を選ぶか」
室内がしんと静まり返った。
やがて、蒼大が先に小さく頷いた。
「仕方ないよな。僕は兄ちゃんの言う通りにするよ。いつかこんな日が来るとは思ってたし。……思ってたより、早すぎたけど」
悠人は続けて芽生を見つめた。彼女はしばらく葛藤した後、絞り出すように訊ねた。
「……それじゃあ、人間関係は? 学業とか、自分の世界で築いてきたすべてを、永遠に捨てることになるんだよね」
「ああ。そうなる。それに、他の次元ではすでに死んでいることになっているから、おそらく身分を偽造するか、一生隠れて暮らすことになるだろうね」
芽生が何かを言いかける前に、悠人は言葉を重ねた。
「それでも、俺は覚悟できてる。俺の世界で築いてきたものなんて、お前たち二人の重みに比べれば、取るに足らないものだから」
「……」
芽生の沈黙は蒼大のときよりも長かった。悠人は黙って待った。しばらくして、彼女はようやく落ち着きを取り戻した顔で言った。
「……そうだね。私も、兄ちゃんたちが私の人生から突然いなくなるなんて、想像もしたくない。うん、そうしよう」
「よし、それじゃあここからが問題だな」
蒼大が緊張した面持ちで身構えた。「誰の世界に集まる?」
「それは、くじ引きで決めよう」
悠人の提案に、二人も同意した。
芽生のスマートフォンにあったルーレットアプリを使うことにした。円盤を三等分し、それぞれの名前を書き入れて、回す。
結果――止まったのは『悠人』の名前だった。
悠人は二人の顔色を窺った。当然、表情は晴れない。悠人自身も、あまりいい気分ではなかった。
「……もう一回やろう」悠人がリセットボタンを押そうとした。「俺はいい。次は、お前たち二人だけで……」
「いや、僕も大丈夫」蒼大が制した。「芽生の方にしよう」
「私もいいよ」芽生も首を横に振った。「そんなふうに遠慮し始めたらキリがない。せっかく出た結果なんだから、これに従うのが一番いいと思う」
「……本当に、大丈夫か?」
悠人が念を押すと、二人は悟りを開いたような超然とした面持ちで、ゆっくりと頷いた。
「うん。それに、どうせ集まるなら兄ちゃんのところが一番心強いしね」
「私もそう思った。悠人兄ちゃんのところなら、なんだか安心」
悠人は、胸に込み上げる責任感を押し隠すように力強く頷き返した。
「わかった。任せてくれ。二人が心穏やかにいられる場所は、俺が何としてでも用意するから」
悠人はそう誓うと、しばし円卓の一点を見つめた。急に暗闇に放り込まれたとき、少しずつ目が慣れていくのを待つかのように、あまりに急激な変化に思考を馴染ませる時間が必要だった。それは他の二人も同じようだった。三人はひととき、深い沈黙の中に身を沈め、やがてゆっくりと現実の意識へと浮上してきた。
「焦る必要はない」悠人が口を開く。「準備しなきゃいけないことも山ほどあるだろうし、まだ二週間ある。それまでにゆっくりと――」
言葉を終える前に、小屋のドアが勢いよく開いた。
三人は感電したかのように跳ね上がり、一斉にそちらを振り向いた。
――母だった。
悠人は反射的に叫びそうになったが、喉の奥で声を飲み込んだ。今この瞬間の「母」が、三人のうち誰の次元の母なのか確信が持てず、下手に声をかけることができなかったのだ。他の二人も同様に、ただ母を凝視したまま動けない。張り詰めた静寂が『兄妹の部屋』を支配した。
しばらくして、開け放たれたドアの前に立つ母が、悠人の目を見て問いかけた。
「……その二人は、誰?」
悠人は、それが自分への問いであることを慎重に確認し、わずかに間を置いてから答えた。
「あ、ああ……」
自然と掠れた声が出た。
「同じ部活の後輩たち。……家出したっていうから、連れてきたんだよ」
蒼大と芽生が同時に悠人を睨みつけたが、悠人は構わず言葉を繋いだ。
「二人は兄妹なんだけど、今ちょっと家庭の事情が複雑でさ。家を飛び出してきたんだけど、頼れる親戚も友達もいないらしくて。それで、ちょうどこの小屋が空いているから、連れてきた」
「……」
「勝手に連れてきて悪いけど、でも、放っておけなくて……母さん?」
呼んでみたが、返事はなかった。母は一人だけ時間の止まった空間にいるかのように、ただ一心不乱に蒼大と芽生の姿を見つめ続けている。
「……母さん、聞いてる?」
もう一度呼びかけると、ようやく母の凍りついた表情にひびが入った。
「え?……ああ、ごめんなさい。なんて言ったの? 私は、荷物の整理を手伝おうと思って入ってみたんだけど……。あ、余計なことだったかしら」
母の様子が少なからず動揺しているのを見て、悠人は直感的に安堵した。
「俺の親しい後輩たちなんだ。行き場がないって言うから連れてきちゃったけど、やっぱり、よくないよな。今すぐ出て行ってもらうから……」
悠人が立ち上がろうとすると、母は手を挙げてそれを制した。
「いいわよ、追い出さなくても。もう遅いし、行くところがないんでしょう? ご両親には連絡したの?」
「だから、その親のことで揉めて出てきたんだって」
「ああ……そうなのね。じゃあ、仕方ないわ。今夜はここに泊まって行きなさい」
迷いのないその態度に、悠人の方が戸惑ってしまう。
「……いいの?」
「ええ。もう夜の十時よ。こんな時間に外へ出すなんて危ないじゃない」
そう答える母の顔には、懸念よりも、どこか一種の感激に近い光が宿っていた。
「あ、そうだわ。あなたたち、夕飯は?」
問いかけられた二人は返事もできず、ただ横目で互いを見合わせた。不自然な空気が流れる前に、悠人が先回りして答える。
「いや、二人ともまだなんだ。悪いけど母さん、何かお菓子とか……軽くつまめるものがあればもらえるかな」
「お菓子? だめよ、ちゃんと食べなきゃ。準備してあげるから、家に入りなさい」
「いいえ! だ、大丈夫ですよ!」芽生がどもりながら叫んだ。「そこまでしていただくのは、その、申し訳ないですし……」
「そ、そうです」蒼大も言葉を重ねる。「ここにいさせてもらえるだけで、十分すぎるくらいですから。本当にありがとうございます」
「……そう? じゃあ、ここに何か持ってきてあげるから。ちょっと待っててね。……あ、それと」
母は小屋を出ようとしてふと足を止め、蒼大と芽生を振り返った。
「あなたたち、お名前は?」
「橋本」
悠人が即答した。聞かれるだろうと予測して、とっさにひねり出した偽名だった。悠人は蒼大と芽生を指差して言った。
「橋本ハルと、アキ」
悠人が「合わせろ」と言わんばかりに二人を凝視すると、二人は引きつったような笑顔で大きく頷いた。
母が『兄妹の部屋』を出て、ドアが閉まった瞬間に二人の叱責が飛んできた。
「ちょっと、なんで鍵をかけなかったのよ!」芽生が声を荒らげる。「心臓が止まるかと思った!」
「しかも家出ってなんだよ」蒼大も詰め寄る。「『遊びに来た』くらいでよかっただろ。なんであんなヘビーな設定を盛るんだよ」
「それに、あの名前は何? ハル?アキ?」
「僕の知り合いに橋本がいるって知ってるだろ。ややこしいんだよ」
悠人は目を閉じ、腕を組んだまま黙って二人の言い分を聞いていた。嵐が止むのを待ってから、ゆっくりと目を開ける。
「鍵は、」悠人は淡々と説明を始めた。「今日に限ったことじゃない。これまで一度もかけたことはなかっただろ。あの事故以来、父さんも母さんもここに寄りついたことなんて一度もなかったんだから。……それから、家出という設定にしたのは、わざとだ」
「わざと?」
「どうして?」
「どのみち二人がこちらへ来るなら、まずは寝床を確保しなきゃならない。うちなら好都合だろ? 家出ということにすれば、いちいち嘘を吐く手間も省ける」
「……無茶苦茶だよ」
「そうよ。もしお母さんに断られたらどうするつもりだったの?」
「結果的に断られなかった。それに、もし断られたとしてもプランBは用意していたから、なんとかなったはず」
「…………」
「ほかに文句はあるか? あるなら早くしろ。もうすぐ母さんが戻ってくる」
いつの間にか、二人は毒気を抜かれた子犬のような顔になって、大人しく首を横に振った。
「とりあえず、今日は帰りな。母さんにはうまく伝えておくから。明日また来て、少しずつ馴染んでいくんだ。いいな?」
二人がまだ躊躇しているのを見て、悠人は組んでいた腕を解き、静かに問いかけた。
「引き返すなら今しかない。……こちらへ来るか、それともやめるか」
わずかな沈黙の後、蒼大が言った。「……行くよ」
「私も」芽生も続いた。
「じゃあ、決まりだね」
三人は、決戦を前にした戦士のように深く頷き合った。
「さあ、母さんが来る前に早く行け」
蒼大が先に出てドアを閉め、続いて芽生も『兄妹の部屋』を後にした。
二人の気配が消えて間もなく、母が戻ってきた。パンと牛乳を載せたトレイを両手に抱え、不思議そうに悠人に訊ねる。
「あら、二人は?」
「帰ったよ」
「どうして?」
「一応引き止めたんだけど、やっぱり迷惑をかけたくないって」
「こんな時間に……」
母は心底残念そうな声を漏らした。「無事に着いたか、後で連絡してあげてね」
「うん」
「……あのね、悠人」
母は何かをためらうように、少し間を置いてから言葉を継いだ。
「あの子たち、うちに泊まってもいいって伝えてあげて。どうしても行き場がないのなら。お父さんには秘密にしておくから。どうせ出張中だし、帰ってくるまでまだ時間もあるし……とりあえず、その間だけでもね」
悠人は返事も忘れ、しばらく母の顔を見つめていた。母がこんなふうに何かを熱心に語る姿を見るのは、あまりに久しぶりで、まるで知らない誰かを見ているような気分だった。
「……わかった。伝えておくよ」
悠人は雑念を振り払うように、短く頷いた。