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13


芽生が姿を消してから、一週間が経った。  橋本蓮は自室に閉じこもり、「お前に一目惚れなんてするんじゃなかった」と吐き捨てたあの時の言葉を思い出しては、頭を掻きむしっていた。 「そんなことができたら、こんなに苦労してねえよ、馬鹿……」  当時は怒りに任せ、二度と会わないつもりでいた。だが、一日が経つ頃にはその決心は脆くも崩れ去り、一週間が経った今では、頭の中は芽生のことで埋め尽くされていた。  芽生の様子がおかしかったことには、以前から気づいていた。けれど、彼女が自分のことを滅多に話さない性格だったため、具体的に何があったのかまでは探りようがなかった。彼女の友人たちを訪ねて回ったが、親しい友人にすら私生活を明かしていなかったようで、収穫らしい収穫は得られなかった。むしろ、彼女らよりも自分の方が芽生を深く知っていると言えるほどだった。  状況からすれば単なる家出の可能性が高いと判断されたのか、警察の捜索もあまり熱が入っていないようだった。せめてもの救いは、彼女の両親が仕事を投げ出してまで昼夜を問わず探し回っていることだったが、芽生がまるで蒸発でもしたかのように消えてしまったため、難航しているという話だった。  追い詰められた末、橋本はついに「あの可能性」を考慮せざるを得なくなった。別れ際に芽生が語った、あの冗長で荒唐無稽な言い訳。もしも、あれが本当だったとしたら。 「まさか……」  橋本は苦笑いして首を振ったが、すぐに真顔に戻り、腕を組んだ。そして、あの時の芽生の様子を改めて思い返してみた。  あんな表情の芽生は、確かに初めて見た。底の見えない無表情。たとえば、猛獣に首筋を噛まれたまま死を待つしかない鹿のように、悲しみなどとうに超越してしまったかのような、超然とした顔。 「……いや、違う」  今になって考えれば、違った。あれは諦めの表情ではなかった。助けを求めている顔だったのだ。  橋本は立ち上がった。上着をひっつかみ、家を飛び出した。
 しばらくして、橋本は芽生の家の前に到着した。  何度か送り届けたことがあったため道は覚えていたが、敷居を跨ぐのは初めてだった。門扉の前に立ち、「佐々木」と書かれた表札を改めて確認してからインターホンを押す。だが、いくら待っても反応はない。何度か繰り返したが、人の気配は一向に感じられなかった。  橋本はしばし悩み、やがて家の周囲を徘徊し始めた。辺りに人がいないことを確かめると、意を決して塀を乗り越え、敷地内へと侵入した。  「兄妹の部屋」は、すぐに目に留まった。芽生の説明通り、庭の片隅にぽつんと佇む小さな小屋だ。取り壊すと聞いていたが、まだ残されている。おそらく芽生が行方不明になったことで、解体作業が先延ばしになったのだろう。  橋本は小屋に近づき、ドアノブをゆっくりと握った。鍵はかかっておらず、ドアは簡単に開いた。念のため庭の様子を伺ってから、彼は小屋の中へと足を踏み入れた。

 ドアを静かに閉めた後、橋本は室内を見渡した。狭くて窮屈な倉庫、あるいは子供たちの秘密基地のような場所だった。芽生の残り香が微かに漂ってはいたものの、特に手がかりらしきものは見当たらない。  橋本は、やはり見当違いだったかと後悔し、引き返そうとノブに手をかけた。だが、彼の手が触れる直前にノブが勝手に回り、ドアがそっと開いた。  中に入ってきたのは――もう一人の橋本だった。  橋本は反射的に一歩身を引いた。驚きというよりは、相手が入りやすいようにと体が勝手に動いたのだ。後から入ってきた橋本は、先客の姿を認めるなり呆然と立ち尽くした。そして、戸惑いながらもドアを閉めた。 「……」  とにかく、幻などではないということだけは確信できた。二人は沈黙の中、しばし互いを見つめ合った。他者の視点で見る自分の顔。鏡で見るのとは随分と印象が違うものだと不思議に思っていると、向こうの橋本がふと口を開いた。 「鏡で見るのと、なんか違う」 「ああ……俺もちょうど同じことを考えてた」 「声も、なんだか変な感じがする」  二人は揃って、こくりと頷いた。続いて、後から来た方が尋ねた。 「お前は、どこの『俺』だ? 俺のところには、次男の蒼大がいるんだけど」 「俺の方は、末っ子の芽生だよ」 「そうか……お前もその妹さんから聞いて、ここに来たのか?」 「ああ」  二人は再び頷き合った。 「どうやら、あれは本当の話だったみたいだな」  蒼大側の橋本はそれほど驚いている様子はなく、それは芽生側の橋本も同じだった。二人とも、まるで珍しい気象現象でも眺めるような心地で、互いを観察していた。 「不思議なこともあるもんだぜ」 「全く。これはもう漫画のネタにするしかない」  軽く笑い飛ばした後、二人はすぐに本題へと移った。 「お前がここに来たってことは……蒼大だっけ、そっちでも佐々木が失踪したわけか?」 「ああ。もう一週間になる」 「俺の方も同じ。やっぱり二人とも、長男のところへ行ってしまったんだろうな」 「たぶん。そうするって言ってたし」 「なら、長男の次元へ行って、二人を連れ戻そう」 「……どうやって行く?」 「ドアを開けて行くしかないだろ」  芽生側の橋本が小屋のドアを見つめながら呟いた。 「確かに、俺もお前も、ドアを通じてここに入ったからな」 「ああ。たぶん、外から入るときは、その人間がどの次元に存在するかで繋がる先が決まる感じらしい。蒼大もそう説明してた」 「うーん……まだ完全には理解できないな」 「なら、実験してみよう」  二人はドアに歩み寄った。蒼大側の橋本が先にドアを開けて外へ出、芽生側の橋本が後に続く。  外へ出ると、すぐにスマホを確認した。 「……圏外だ」  芽生側の橋本が告げると、蒼大側の橋本が言った。 「俺の方は生きてる」 「つまり、ここは『お前の方の次元』ってことだな」  二人は小屋に戻り、今度は芽生側の次元で同じ実験を繰り返した。すると、今度は蒼大側の橋本のスマホだけが圏外になった。 「なるほど」  再び小屋の中。芽生側の橋本は何度も頷きながら、独り言のように整理した。 「わかった。この小屋は、三つの次元を繋ぐ唯一の共有空間なんだ。外から入るときは、どの次元からでもドアを開ければここに来られる。でも中から出る時は、ノブを握った人間の次元に合わせて、外の世界が確定する仕組みらしい」 「『ハウルの動く城』みたいな感じか」 「少し違う気もするけど、まあ、似たようなもんじゃない?」  実験を続けるうちに、もう一つのルールも判明した。一人がノブを握っている間は、他の次元からドアを開けることはできない。次元を跨いで同時に扉を開くことは不可能だった。だが、肝心の問題に対する解決策は見つからなかった。  芽生側の橋本が口を開く。 「これじゃあ、俺たち二人だけじゃあっちには行けないってことじゃん。長男の次元に」 「そうなるな。あっちの誰かがドアを開けて中に入ってくれない限り、今のところ渡る方法がない」 「じゃあ、ここでずっと待ってみようぜ」 「ずっと誰も来なかったら?」 「その時はその時だ。とりあえず、一時間くらい待ってみよう」 「ああ、そうしよう」  二人の待ち時間が始まった。  習慣的にスマホを取り出したが、小屋の中ではどの次元のスマホも圏外だった。芽生側の橋本は、何か別の方法はないものかと室内を歩き回った。すると、円卓の下に財布が一つ落ちているのを見つけた。彼は何気なくそれを拾い上げ、中を確認してみた。  学生証が目に留まり、抜き出してみた。財布の持ち主は悠人。芽生とよく似た面影を持つ、高校三年生の男子だった。 「長男らしいな」  蒼大側の蓮もそばに寄り、学生証を覗き込んだ。芽生側の蓮がさらに財布を探ろうとすると、蒼大側の蓮がそれを制した。 「そこまでにしとけ。人の財布を漁ってどうするつもりだよ」 「でも、お前が先に拾ってたら、今の俺と同じことをしてただろ?」 「……まあ、たぶん。そうだな」 「で、その時は、俺がお前を止めてたはずだよね」  二人は同時に、ニヤリと笑った。 「たぶんな。……よし、もうやめよう」 「ああ」  芽生側の蓮は学生証を元の位置に差し込み、財布を閉じた。 「さすが自分同士だな。意見が合うのが秒速で助かるよ」 「まったくだよ」  そうして財布を円卓の上に置こうとした瞬間、小屋のドアが勢いよく開いた。  外から一人の少年が飛び込んでくる。先ほど学生証で見た、悠人だった。 「……蓮?」  悠人は目の前の蓮を見て面食らった顔をしたが、すぐ後ろにもう一人、同じ顔が並んでいるのを認めた途端、驚愕に目を見開いた。  刹那の静寂。直後、悠人は半開きだったドアを強引に引き寄せた。蒼大側の蓮が素早く内側のノブを掴んで抗い、芽生側の蓮がドアの隙間に腕を突っ込んで閉鎖を阻止する。  悠人は芽生側の蓮の腕を押し戻そうとしたが、蓮の踏ん張りの方が勝った。蓮がさらにドアをこじ開けようとした、その時だ。蓮は悲鳴を上げ、腕の力を抜いた。悠人が彼の腕に、渾身の力で噛みついたのだ。  思わず涙がにじむほどの激痛。顎の力には、肉を食いちぎってでも侵入を阻むという執念がこもっていた。蓮が諦めて腕を引き抜こうとした瞬間、蒼大側の蓮の叫びが響いた。 「耐えろ! ここで閉められたら、二度と開かないぞ!」  その言葉に、芽生側の蓮は再び踏ん張った。気合を入れるように咆哮を上げると、一瞬だけ痛みが麻痺したような錯覚に陥る。腕に一段と力を込めると、ドアがじりじりと開き始めた。蒼大側の蓮も合流して両手でドアを引っ張り、ついに扉が全開になる。二人はその勢いのまま、庭へと突き進むように飛び出した。

 芝生の上にダイビングするように倒れ込んだ蒼大側の蓮は、すぐに服を払いながら立ち上がった。芽生側の蓮はまだ立ち上がれず、跪いたまま噛まれた腕をさすっている。低く唸る様子からして、傷は相当深いようだった。  一方、尻餅をついて肩で息をしていた悠人も、すぐさま起き上がって二人を鋭く睨みつけた。蒼大側の蓮が声をかける。 「悠人さん、ですよね。蒼大の兄さんの」 「……」 「俺の名前を知ってるってことは、こちらの俺とも知り合いなんですね」 「面白いな」芽生側の蓮が、痛みに耐えながら立ち上がった。「三人とも、『俺』と知り合いとは」  悠人の刺すような視線が二人を射抜く。彼は芽生側の蓮に向かって言い放った。 「……それを、よこせ」  芽生側の蓮はそこでようやく気づき、手に握りしめたままだった財布を悠人へと放り投げた。悠人がそれを片手で受け取った瞬間、家の玄関が開いた。 「……何の音? 誰か来たの?」  姿を現したのは、同年代の少女だった。蒼大の妹に違いない。そう確信した瞬間、芽生側の蓮が彼女の名を呼んだ。 「芽生」 「……蓮?」  芽生側の蓮が急いで駆け寄り、芽生は信じられないものを見るような、強烈な眼差しで彼を凝視した。二人は向かい合い、声を潜めて言葉を交わし始める。距離があるため、蒼大側の蓮のところまでは内容は聞こえてこない。  蒼大側の蓮は、「自分」と共にある芽生の姿を見て、一瞬、立ち尽くしてしまった。それは嫉妬というより、そこにいるのが自分ではないという、言いようのない切なさに近かった。 「蓮……!」  我に返ると、いつの間にか蒼大も庭に出て、彼のそばまで来ていた。 「蒼大、お前……」  蒼大の顔には、隠しようのない喜びが溢れていた。蓮も嬉しさが込み上げ、ヘッドロックでもかましてやりたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。改めて考えれば、勝手に消えたこいつの行動は看過できるものではない。 「お前……なんで一言もなしに消えたんだよ。どれだけ心配したと思ってるんだ!」 「……ごめん。どうしても、言い出す勇気がなくて」 「蒼大! 芽生!」  悠人の鋭い怒声が響き渡った。四人は会話を切り、一斉に彼を振り返る。悠人は顎で自分の背後を指し、二人に向かって冷徹に命じた。 「こっちにおいで」 「…………」 「早く」  蒼大と芽生は、それぞれの橋本の顔色を窺いながら、しばらくの間、躊躇うように身をすくめていた。だが、やがて促されるように悠人のそばへと歩き出した。  橋本は行かせまいと蒼大の腕を掴もうとしたが、結局、その手は空を切った。隣を見れば、芽生側の橋本も彼女を止めることができずにいた。二人を連れ戻すためには、まず目の前の悠人を退けなければならないことを、彼らは痛いほど理解していた。  蒼大と芽生が隣に並ぶと、悠人は二人を庇うように一歩前へ出た。先ほどの焦りはすでに消え、その顔には静かな落ち着きが戻っていた。それは取り繕った強がりではなく、天性の不敵さが全身に深く根ざしているかのようだった。真っ直ぐに背を伸ばして立つその風貌は、身長こそ橋本より低いものの、放つ威圧感は彼らを遥かに凌駕していた。  橋本たちが息を呑んで立ち尽くす中、悠人が言い放った。 「お前ら、今すぐ帰れ。じゃないと不法侵入で警察呼ぶから」 「……帰りますよ、もちろん」  思わず敬語が漏れた。 「ただし、蒼大と一緒じゃなきゃ帰りません」 「僕もだ」芽生側の橋本も続いた。「芽生と一緒じゃなきゃ、ここから一歩も動きませんから」 「蒼大と芽生はここに残る。それが結論だ」 「帰ろう、芽生!」  芽生側の橋本が叫んだ。 「芽生のご両親が必死で探してる。俺も、芽生の友達もみんな同じだ。みんな、君に会いたがってるんだ!」  芽生は足元を見つめたまま、何も答えない。代わりに悠人が冷徹に返した。 「心配をかけている自覚はある。だけど、すべてを覚悟した上での決断だよ」 「あんたは黙ってろ! 悠人さんは失うものがない立場だから、そんなことが言えるんだ。……芽生、君が答えてくれ。本当に、これでいいのか?」  芽生は依然として口を閉ざしたままだった。すると今度は、蒼大が口を開いた。 「……僕は覚悟したよ。芽生も同じだ。蓮さえ邪魔しなければ、な」 「……」  芽生側の橋本が、どうすればいいと訴えるように蒼大側の橋本を盗み見た。蒼大側の橋本は答えを出す代わりに、蒼大の顔をじっと観察した。強張ったその表情からは、隠しきれない心の脆さが透けて見えた。  橋本は焦りを押し殺し、ただ事実だけを告げた。 「蒼大。……俺たちの漫画、当選したぞ」  その瞬間、蒼大の強張っていた肩から力が抜けるのがわかった。 「三日前に連絡が来たんだ。でも、お前がいなくなったから、受賞は保留にしてもらってる。……だから帰ろう。戻って、賞を受け取って、二人で夢見た高校生漫画家生活、始めようぜ」 「惑わされるな」  悠人が割り込んだ。 「蒼大、芽生。それはもう、お前たちとは無関係な世界の出来事だよ」  悠人は突如スマートフォンを取り出すと、どこかへ電話をかけ始めた。 「……どこにかけるんだよ」  蒼大が不安げに訊ねる。 「警察」 「はっ……!?」 「ちょっと、本気なの……?」  芽生が声を震わせるが、悠人が答えるより先に通話が繋がった。悠人がスピーカーフォンに切り替えると、警官の事務的な声が庭に響き渡った。悠人は淀みない口調で通報を始めた。 「今、自宅の庭に高校生の男子二人が塀を越えて侵入してきました。不法侵入です、至急来てください。住所は――」  住所を正確に伝え、出動の確認をとると、悠人は淡々と電話を切った。  狼狽える橋本たちに向かって、悠人は告げる。 「無駄な説得はやめて、二人とも帰れ。無事な姿が確認できたんだ、これでいいだろ」 「全然よくない!」  芽生側の橋本が激昂した。 「言ったろ、芽生を連れて帰るまでは絶対に動かないって!」 「なら、逮捕されるだけだぞ」  悠人は軽く肩をすくめた。 「お前たちの場合は状況が『特殊』だ。捕まったら色々面倒なことになるだろうね。……そうなりたくなければ、今のうちに戻った方が良いよ」 「正気じゃない……」  蒼大側の橋本が、呆然と呟いた。 「あんたたち、みんな頭がおかしくなってるんじゃないか?」 「……は?」 「お前の妹と弟が、今どれだけ大切なものを捨てようとしているのか、本当にわかっているのか!? あんたは今、この二人に救いようのない残酷な選択を強いているんだ。……これは、二人を半分殺しているのと同じだぞ!」 「それは君の主観にすぎない」  悠人は揺るがなかった。 「三人で考え抜き、共に選んだ道だ。失うものもあるけど、得るものもある。足りない部分は、こちらの世界で少しずつ埋めていけばいい。血の繋がりもない赤の他人が口を出す問題じゃないんだよ」 「蒼大、お前はどうしたいんだ?」橋本は詰め寄った。 「だから、蒼大はさっき――」 「あんたに訊いてるんじゃない! 蒼大に訊いてるんだ!」  悠人が溜息をつき、言葉を切ると、橋本は重ねて蒼大に訴えかけた。 「もし……お前のその、人を拒絶できない性格のせいで、仕方なくここに残っているんだとしたらどうなんだ? じゃあ、頼む!俺と一緒に帰ってくれ。俺の頼み、断るのか?」 「芽生」  続いて、芽生側の橋本も問いかけた。 「君はどうしたい? 今度こそ、本当に今度こそ、君自身の望みを言ってほしい。どんな答えでも俺はそれに従う。……本当にここに残りたいの? それとも、俺と一緒に帰りたいの?」  わずかな沈黙が流れた。蒼大と芽生がほぼ同時に口を開こうとしたその瞬間、悠人のスマホに着信があった。  悠人は画面をちらりと見ただけで出ようとはせず、代わりに橋本たちを冷たく見据えた。 「さっき通報した時、わざと少し違う住所を教えたんだ」 「……っ」 「だけど、すぐそこまで来ている。次にかかってきたら正確な住所を伝える。そうすれば、一分もしないうちに警察が到着するはずだ」 「でも、まだ二人の返事を……!」  橋本が狼狽えて言葉を濁すと、悠人は心底面倒そうに吐き捨てた。 「まだ状況が把握できていないのか。何度も同じことを言わせるな。……全く、呆れた奴らだよな、蓮」  不意に名前を呼ばれ、橋本は思わず背筋を正した。悠人は鋭く、それでいて淡々とした声で、二人に最後通牒を突きつけた。 「帰れ」  悠人は間もなく電話に出ると、短く言葉を交わしてすぐに切った。蒼大と芽生の表情がさらに暗くなったのを見るに、今度は本当に正しい住所を教えたようだった。 「……どうする?」  芽生側の橋本が藁にもすがる思いで蒼大側の橋本を見つめたが、彼もまた同じ心境で、返す言葉が見つからなかった。その時、一つの名案が脳裏をかすめた。以前、漫画のネタにするために構想していたアイデアが、不意にインスピレーションとして降りてきたのだ。  蒼大側の橋本は、悠人に聞こえないよう声を潜めて言った。 「……一旦、この家から出よう」 「出ようって……『こっち』に残るってことか? 正気かよ」 「でも、わかってるだろ。このまま小屋に戻ってドアを閉めたら、二度とこっちには来られなくなる。あの人がまたドアを開けてくれるはずなんて、絶対にないんだから」 「だからって……」 「ここに居座るつもりじゃない。戦略的後退だ。とにかくあの二人を連れて帰らなきゃ、こっちに来た意味がないだろ」 「……」  覚悟が決まったのか、芽生側の橋本の強張っていた表情が、次第に引き締まっていった。 「とりあえずここを出よう。もうすぐ警察が来る」 「ああ」  橋本は門扉の方を盗み見た。幸い、少しだけ隙間が開いている。 「三つ数えたら、同時に後ろを向いて走る。いいか?」 「わかった」 「……一、二、三!」  二人は同時に背を向け、走り出した。悠人が対応する隙を与えず、門をこじ開けて一目散に外へ飛び出す。  振り返らずに走りながら、蒼大側の橋本が言った。 「俺たちの家に行こう」 「……うち? あ、そうか、そういうことか!」  芽生側の橋本もすぐに理解したようで、それ以上は訊かずに走る速度を上げた。  この次元で、自分たちに力を貸してくれそうな唯一の人間。それは、この次元にいる「自分自身」しかいないはずだった。 「でも、あいつが俺たちのことを信じてくれるかな」  芽生側の橋本が不安げに呟く。 「俺たちを見て、幻覚か何かだと思われたらどうする?」 「お前は、俺を見た時に幻覚だと思ったか?」 「……いや」 「俺もだ。なら、こっちの俺だって同じはずだ」 「だけど、俺たちは蒼大や芽生から話を聞いて、事情を事前に知っていたんだ。こっちの俺は、まだ何も聞いていないかもしれないぞ」 「もしそうなら、俺たちが説明すればいい。……それに、こっちの俺も、すでにあの悠人って人から何か聞かされているかもしれないしな」 「それならいいけど……まあ、行ってみればなんとかなるか」 「それだよ。とりあえずやってみるんだ。橋本蓮らしく行こうぜ!」  二人は最寄り駅まで休まずに走り抜き、電車に飛び乗って自分たちの家へと向かった。