ある日の放課後、二人は共有夢の中、紬が行きつけのスイーツ店でケーキを食べていた。
すると、奏汰が唐突に言い出した。
「紬。……太った?」
「え?」
紬は自分の頬を手の平で触りながら聞き返した。
「そんな感じはしないけど」
「いや、顔じゃなくて。お腹」
奏汰の視線が、彼女の腹部に向けられた。
「実は前から聞こうと思ってたんだけど、最近だんだん膨らんできてないか?」
紬は自分の腹を見下ろした。確かに、自分でも気づかないうちに腹部がかなり丸みを帯びている。
「……ええっ!?」
紬は一拍遅れて驚きの声を上げた。
「でもここ、夢の中だよ?」
「それはそうだけど……」
奏汰は店の窓の外を眺めながら言った。
「紬が作るこの世界、最近ますますリアリティが増してるだろ? そのお腹も、ある種のリアリティの再現なんじゃないの?」
「そうなのかな……」紬は無造作に答えた。「私、そんなにたくさん食べたっけ? 今日はまだ三十切れしか食べてないんだけど」
「三十切れ『も』食べてるだろ……。とにかく、今まで食べてきた分が体に出始めたんじゃない?この一週間で食べた分を合わせたら、数百切れはいくはずだし。現実でそんなに食べてたら、太る前に病院送りだけどね」
紬は再びケーキを一口運んでから、納得したように頷いた。「本当に」
「それにしても変だよな」
奏汰が紬の顔と腹を交互に見比べる。
「太るなら全体的に太るのが普通だろ。頬がふっくらするとかさ。なのになんでお腹だけピンポイントで出てるんだ?」
紬は首を傾げながら答えた。「顔まで太ったら……可愛くないから?」
「そこだけ妥協するのかよ。都合のいいリアリティだな」
紬は軽く笑い飛ばすと、再びフォークを動かした。食べやすいサイズに切り分けたケーキを口に運ぼうとした、その瞬間。
腹の奥から奇妙な感触が伝わってきた。
「……」
紬はピタリと手を止め、フォークを置いた。そしてもう一度、自分の腹を見つめる。
「どうかした?」奏汰が尋ねた。「まあ、いくら夢でも、さすがに太るのはショックだった? じゃあケーキはこの辺にして、ダイエットがてら空でも飛びに……」
「いや、ちょっと。静かにして」
紬は手を挙げて彼を制し、腹部から伝わってくる感覚に全神経を集中させた。
「……お腹の中で、何かがトントン叩いてる感じがする」
「ガスでも溜まったのかな。まさかおならまで再現しちゃうとか……」
「違う」紬は強く首を振った。「そんなのじゃない。何て言うか……お腹の中に、何か生きてるものがいて、それが動いてるみたいな……」
「……は?」
「まさかこれ、赤ちゃん?」
その言葉で、ようやく奏汰の余裕そうな表情にひびが入った。
「……冗談だろ?」
「冗談じゃない!」
紬は食ってかかった。
「ふざけてない。これ、私がやったんじゃないから」
「じゃ、誰だよ」
「……」
紬は言葉に詰まり、ただ奏汰を見つめ返した。奏汰が引き攣ったような真剣な顔で尋ねる。
「……念のために聞くけど。俺たち、まだキスしかしてないよな? それも、夢の中だけで」
「……うん」
その通り、現実ではまだキスさえしたことがない。
手をつなぐ以上のスキンシップなんて一度も経験していないし、そもそも紬には、子供が欲しいという願望なんて微塵もなかった。
紬は再び自分の腹を見下ろした。
おそるおそる、その膨らみに両手を置いてみる。
最初はあまりの大きさに、まるで他人の体に触れているような違和感があったが、撫でるうちに徐々に実感が湧いてきた。
「本当に……」
奏汰が身を乗り出し、慎重な口調で尋ねる。
「本当に赤ちゃんなの?」
紬は答えられなかった。確信なんて持てるはずがない。けれどその時、掌にポコッとした小さな振動が伝わった。
腹の皮を通した、確かな生命の鼓動。
「……今、動いた」
「マジか……」奏汰が呆然と呟いた。「まさか、キスだけで子供ができたってこと? いくら夢だとしても、それはちょっと……」
「……っ!」
突然、下腹部を焼くような激痛が紬を貫いた。
息が止まり、視界が白む。
椅子から立ち上がろうとするも、あまりの苦しみに崩れ落ちるように床へ倒れ込んだ。テーブルの上の皿が床に叩きつけられ、派手な破砕音が店内に響き渡る。
「紬!」
奏汰が駆け寄り、紬の体を支えた。
「大丈夫か!? どうした、まさか……陣痛?」
紬は返事をする代わりに、荒い喘ぎ声を漏らした。人生で経験したことのない、凄まじい痛みだった。
「コントロールで痛みを消せないの?」
奏汰の言葉に、紬は必死に意識を集中させた。けれど、思い通りにはいかない。痛みを消そうと念じれば念じるほど、苦痛は激しさを増していく。
当惑を通り越し、底知れぬ恐怖が襲いかかった。この腹の中にある存在は、もはや彼女の権限の及ばない領域に置かれているようだった。
「夢から出よう。そうするしかない」
奏汰が紬の腕を自分の首に回し、抱え上げようとした。だが紬は彼を突き放し、椅子に縋りつきながら途切れ途切れの声で言った。
「……動けない……っ」
「でも、目覚めるには学校に戻らないと……」
「救急車、呼んで……早く!」
「分かった!」
奏汰がすぐに救急車を要請した。
すると、一分もしないうちに救急車が店の前に到着し、救急隊員たちが担架を抱えて店内に雪崩れ込んできた。彼らは迅速に紬を収容し、奏汰も保護者として同乗した。
救急車は学校ではなく、病院へと向かった。
到着するなり、紬はすぐに分娩室へと運び込まれた。
激痛のせいで道中の記憶は一切なく、気づいたときにはすでに分娩台の上にいた。医師や看護師たちが慌ただしく動き回る中、奏汰がそばで手を握りしめ、何かを必死に語りかけていたが、その声は遠く霞んで聞こえない。
溢れ出した涙で視界が歪み、彼の顔さえ判別できなかった。熱に浮かされたように汗が吹き出し、かと思えば寒気で全身が激しく震えた。
そこからは、地獄のような産みの苦しみが続いた。
あまりに長い時間だった。序盤こそ叫ぶ体力が残っていたが、やがてそれも尽き、弱り果てた獣のように呻くことしかできなくなる。羞恥心などどこかへ消え失せ、剥き出しのうめき声が濾過されることなく漏れ出した。
だが、恥ずかしいと感じられた頃が恋しくなるほど、苦痛は長引いた。
脳が過熱して理性が蒸発し、ついには自分が人間ではなく、ただの動物になったかのような錯覚に陥る。人間もまた、本能に支配された生き物であることを嫌というほど突きつけられた。
夢だと分かっていても、止めることも、逃げ出すこともできない。
孤立無援の恐怖。
このまま死んでしまうのではないかと気が遠くなった。けれど、この地獄を終わらせるには、産み落とすしかなかった。
紬は、最後の一歩を踏み出した。指一本動かす余力もなかったが、超人的な精神力を振り絞り、下腹部に渾身の力を込める。
下半身が、溶岩に浸かっているかのように熱くなった。その熱気は最高潮に達し――一気に何かが抜け落ちた。
雪解けのように苦痛がスルリと消え、全身に感覚が戻ってくる。
そして、高く力強い産声が響き渡った。
紬は弾けるような笑みを浮かべた。そうせずにはいられないほど、過剰なドーパミンの奔流が押し寄せてきたからだ。
彼女はオアシスのように訪れた安堵と解放感に身を委ねながら、ゆっくりと自分を取り戻していった。
しばらくして、そばにいた看護師が自分のことのように顔をほころばせ、嬉しい報せを届けてくれた。
「おめでとうございます! 元気で可愛い男の子ですよ」
看護師が抱いていた赤ん坊を差し出し、紬はそれを受け取った。
「……」
抱き上げたというより、掌に乗せたという表現の方がしっくりくるほど、赤ん坊は小さかった。そして、少し驚くほどにしわくちゃで、不細工だった。
解放感に続いて訪れたのは、猛烈な困惑だった。
紬はおろおろしながら奏汰を探した。彼はすぐそばにいて、赤ん坊を見つめながら紬に負けないくらい呆然としていた。一体どう受け止めるべきか、これからどうすればいいのか。見当もつかないまま、紬は再び自分が産んだ赤ん坊に目を落とした。
赤ん坊は紬以上に疲れ切った顔をして、ただ泣くことに全力を注いでいた。
出産後、紬は十分も経たずに退院した。
夢だからこそ可能な芸当だった。赤ん坊を産み落としたことで、紬の夢を操作する能力が元通りに機能し始めたのだ。おかげで残留していた痛みもきれいさっぱり消し去り、疲弊していた体も、何事もなかったかのように回復させることができた。
すべてが、あのスイーツ店でケーキを食べていたときと同じ快調な状態に戻った。
ただ一つ、紬の腕の中に赤ん坊が抱かれていることを除けば。
「…………」
病院の出口で、二人はしばらくの間、赤ん坊を凝視し続けた。
赤ん坊は柔らかなタオルにくるまれ、すやすやと眠りについている。
「とりあえず……」奏汰が切り出した。「もう、体は大丈夫なの?」
「うん」紬は頷いた。「もう平気。さっきは本当に死ぬかと思ったけど……」
「何が何だかさっぱり分からないけど。……とにかく、お疲れさま、紬」
「うん。ありがとう」
束の間の沈黙の後、奏汰が再び尋ねた。
「それで、これからどうする?」
「さあ……」
紬は赤ん坊をもう一度見下ろした。
「とりあえず、私の家に行こう。この子、何とかしてあげないといけないし」
奏汰は頷いた。
そうして三人は、紬の家へと向かった。
家に着くと、三人は早速紬の部屋に入った。
紬は赤ん坊を自分のベッドにそっと寝かせ、その隣に腰を下ろした。
奏汰も床に膝をついたままベッドに頬杖をつき、赤ん坊をまじまじと見つめる。
生まれたばかりで湿り気を帯びていた赤ん坊の肌は、いつの間にかさらさらと整っていた。家に来るまでのわずかな間に成長したようで、拳ほどだった頭も一回り大きくなっている。目鼻立ちも鮮明になり、あらゆる面でようやく人間らしく見えるようになってきた。
奏汰が赤ん坊から目を離さずに尋ねた。
「一体、この子……何者なんだろう」
「……私たちの子、じゃないの?」
「いや、だからさ。なんで? どうやって?」
「分からないよ。私に聞かないで」
「でも、紬が産んだんだろ?」
「それは、そうだけど……」
会話が途切れた。
いくら考えても答えは出なかった。
あくまで夢の中の出来事であり、実際に「親になった」という実感は湧かない。子供を持つ喜びや母性といった感情も、まだ欠片もなかった。
病院にいたときも今も、ただ困惑しているだけだ。一体どうすればいいのか分からず溜息を吐いていると、ふいに赤ん坊が目を覚ました。
赤ん坊は目を開けると、真っ先に紬を見た。次に奏汰の方をちらりと見たが、すぐに視線は紬に戻った。
そうして母子は、しばらくの間じっと見つめ合った。
紬はつい目を逸らしたくなったが、それができなかった。まるで紬の顔に自分が求める世界のすべてがあると言わんばかりに、赤ん坊の瞳が切実に輝いていたからだ。
やがて、赤ん坊の口元に小さな笑みが浮かんだ。それを見て、紬は思わず息を止めてから、ゆっくりと吐き出した。
――可愛い。
そんなことがあり得るのかと思うほど、十七年の人生で見てきたどんなものよりも可愛かった。
隣を見ると、奏汰もまた紬と同様に見惚れてしまったのか、あるいは相変わらず困惑しているのか、とにかく赤ん坊から目を離せずにいた。
紬は赤ん坊がタオルの中でもぞもぞと動くのをしばらく眺めてから、ベッドを立った。
「ベッド、ちょっと大きすぎるかも」
そう言って、紬は小さなベビーベッドを即座に作り出した。
赤ん坊を抱き上げ、優しくあやしてからベビーベッドへと移す。赤ん坊は紬の腕から離れるとすぐに泣き出しそうになったが、紬がベッドの中に手を差し伸べると、すぐに落ち着きを取り戻した。
赤ん坊は両手を伸ばし、紬の人差し指をぎゅっと握りしめた。その小さくて力強い感触が愛おしくて、紬の口元からは自然と笑みがこぼれた。
「何か食べさせなくていいのかな。授乳とか」
紬が尋ねると、奏汰は困ったように肩をすくめた。
「さあ、俺に聞かれても……。どっちにしろ夢なんだし、わざわざ食べさせなくても大丈夫なんじゃないか?」
「そうかな……」
「とにかく、もうそろそろ現実に戻らないと。外ではもう授業が終わる頃だよ」
「じゃあ、この子はどうするの?」
「置いていくしかないだろ。現実に連れていくわけにもいかないんだから」
「……このまま放っておくっていうの?」
「しょうがないじゃないか。それか……消すか」
「ダメ!」紬は強く首を振った。「消すなんて、そんなことできるわけないよ」
「紬」
奏汰は真剣な顔で諭すように言った。
「産むときにあんなに苦労したから、気持ちはわかる。でも、この子は本物の赤ちゃんじゃないんだ。あくまで架空の存在、夢の中で作られた想像の産物に過ぎないんだよ」
「それくらい、私だってわかってる。だけど……」
紬は赤ん坊の小さな手の甲を、親指で愛おしそうになぞりながら言った。
「それでも、赤ちゃんであることに変わりはないでしょう?」
奏汰は小さく溜息をつき、やがて折れるように頷いた。
「わかった。じゃあ、ここに置いていこう。とにかく俺たちは今すぐ出なきゃならないから」
紬は後ろ髪を引かれる思いで、赤ん坊の手を離そうとした。しかし、赤ん坊の握力は意外なほど強く、簡単には離れてくれない。手を持ち上げると、赤ん坊の腕から体までがぶら下がってくる始末だった。
結局、空いている手を使って指を一本ずつ剥がすようにして、ようやく離すことができた。すると赤ん坊は、行き場をなくした両手をあてもなく振り回しながら、火がついたように泣き始めた。
紬は奏汰に促されるように部屋を出た。
ドアを閉める寸前、隙間から赤ん坊の姿が見えた。こちらを凝視するその瞳には、切実な色が宿っている。
泣き声は次第に激しさを増していったが、奏汰がドアを閉め切ると、すべては静寂に呑み込まれた。
二人は学校に戻るまでの間、一言も交わさなかった。
夢から覚めた後も、赤ん坊の話はタブーであるかのように口に出さなかった。
その日の夜、紬は眠りにつくことができなかった。無理に忘れようとしても、あの赤ん坊の感触が、眼差しが、頭から離れない。
結局一睡もできず、疲労を抱えたまま翌朝を迎えた。