翌朝。
幻は登校のためにいつもの電車に揺られていた。
満員電車の中で手すりを掴み、スマホで英単語の暗記に励んでいると、不意に誰かの視線を感じた。無視しようとしたが、耐えきれずそちらへ目を向けた。
一人の男子生徒が、幻をじっと横目で観察していた。
彼と目が合うと、相手はすぐに視線を逸らした。幻は不審に思い、彼を凝視した。
自分と同じ制服を着ており、校章の色から同じ学年であることがわかる。見覚えのない顔だったが、不思議なことに、どこか懐かしいような奇妙な感覚を覚えた。
幻は訝しみながらも再びスマホに目を戻し、英単語の暗記を再開した。
その彼と、朝のホームルームで再会することになった。
担任が、今日は転校生を紹介すると言って、彼を教室へと招き入れた。そして彼に自己紹介を促した。
「石原、奏汰です」
奏汰は教壇の前に立ち、幻の方を真っ直ぐに見据えて言った。
「よろしくお願いします」
偶然にも幻の隣の席が空いており、奏汰はそこに座ることになった。
彼は席に着くなり、幻に話しかけてきた。
「さっき、電車で見かけたよね」
「……ああ」
幻は得体の知れない居心地の悪さを感じながら答えた。
「転校生だったんだな」
「うん。……まあ、正確には少し違うんだけど」
「……え?」
「あ、いや。何でもない。とにかく、よろしく」
「……」
幻は怪訝そうに眉をひそめた。彼の瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光……あるいは敵意のようなものが宿ったように見えたからだ。
だが、あからさまに無視するわけにもいかず、幻は渋々と言葉を返した。
「……よろしく」
昼休み、昼食を終えた幻は、奏汰を連れて校舎を歩いた。
担任の教師が、隣の席のよしみで転校生の案内役を幻に押しつけたからだ。
二人はしばらく、無言のまま歩き続けた。幻が校内の施設を事務的に説明する時を除けば、会話らしい会話は一つもない。幻はこれ以上関わりたくなくて、自然と歩幅を速めていた。
気まずい沈黙が五分ほど続いた後、不意に奏汰が口を開いた。
「実は俺、全部知ってるんだ」
「何を?」
「この学校のことだよ」
奏汰は校舎を見渡すふりをしながら言った。
「俺も、ここの生徒なんだ」
「……そう、だろうね」幻は頬をかいた。「今日からここの生徒になったからね」
「違うよ」奏汰は首を振った。「一年生の時からずっと通ってる。『現実』ではね」
「……現実?」
冗談かと思ったが、奏汰の表情はあまりに真剣だった。
幻が黙り込むと、奏汰は畳みかけるように言った。
「単刀直入に言う。実は君がいるここは、夢の世界なんだ」
「……」
こいつはやばい奴だ、と幻は確信した。
案内を任せてきた担任を心の中で呪いながら、幻は引きつった笑顔を浮かべた。
「そうか。……じゃあ、それは誰の夢なの?」
皮肉を込めて尋ねると、奏汰は幻をちらりと見やり、逆に問い返してきた。
「今、俺のことをやばい奴だと思っただろ」
「……まあ、うん」
率直に認めると、奏汰はくすっと笑って頷いた。
「無理もないか。君はここで十七年間も暮らしてきたんだからね。この、あまりに精巧で緻密な『夢』の中で」
「じゃあ、もう戻ろう」
これ以上付き合っていられず、幻は踵を返した。こんな変な転校生に構っている暇はない。早々に教室へ戻って、先生に席替えの相談をしようと考えていた時、背後から一言、言葉が飛んできた。
「紬」
幻の足が止まった。彼はゆっくりと振り返った。
「……は? 今、なんて言った?」
「さっき、誰の夢かって聞いただろ?」奏汰は言った。「紬だよ。君の母の夢なんだ、ここは」
その瞬間、幻の中での奏汰に対する印象が「やばい奴」から「危険な奴」へと格上げされた。
幻は再び奏汰の前に歩み寄った。胸ぐらを掴みたい衝動を必死に抑え、低い声で問い詰める。
「お前、何者だよ。どうして母さんの名前を知ってる?」
「俺は紬の彼氏だ」奏汰は言った。「あ、もちろんここじゃなくて、現実での話。説明すると長くなるけど……とりあえず『ここ』では、俺が君の父親ってことになる」
幻はぞくっとした。
これはお母さんのストーカーだ。
それも、かなり重症の部類。懐に凶器でも隠し持っているのではないかと想像し、背筋に冷たいものが走った。
幻は態度を一変させ、努めて落ち着いた口調で言った。
「……分かった。信じるよ。じゃあ、ちょっと母さんに電話して確認してもいいか?」
幻はスマホを取り出し、番号をプッシュした。母にかけるのは嘘だ。そのまま警察に通報するつもりだった。
だが、即座に手を遮られた。
「それはダメだ」奏汰が言った。「頼むから、紬には内緒にしてくれ。今、紬は俺の存在をこの夢から徹底的に排除しようとしている。何度も試行錯誤を繰り返して、ようやくバレずに入り込めたんだ。いつ見つかって追放されるか分からないんだよ」
「……」
幻は少しだけ躊躇した。奏汰の表情があまりに切実に見えたからだ。
もちろん、こいつの頭がおかしいという判断は変わらない。だが、不思議と悪人には見えなかった。それに、どれほど荒唐無稽な話だろうと、ただ聞き流すだけではこの男から逃げられない予感がした。
幻は警戒を解かずに尋ねた。
「つまりあんたが言いたいのは、この世界が、誰かの夢の中で作られた幻だってこと?」
「そうだよ」
「いいよ、仮にそうだとしておこう。じゃあ、それを僕に教える理由は何なんだ?」
「紬を目覚めさせるため」
奏汰は説明した。
「言っただろ、ここは紬が見ている夢の世界だ。夢を見るためには眠っていなきゃいけない。つまり紬は、現実ではずっと眠ったままで、外からはどうしても起こせない状態になってる。……まるで、眠り姫みたいに」
「ずっと眠ったまま? ……意識不明ってことか?」
「ああ。昏睡状態で、今は病室で酸素吸入器をつけてる」
幻は聞いた話を整理した。狂人の話を真剣に検討するなど馬鹿げていると思ったが、昼休みの時間はまだ余っている。少しばかり興味も湧いてきたので、幻は一応付き合ってやることにした。
「つまり」幻は言った。「今のこの世界は母さんが見ている夢で、僕が毎日見ている母さんは本人じゃなくて、幻影だってこと?」
「そう」
「……つまり、今俺の周りにあるものすべてが、母さんの作り出した空想に過ぎないってことか」
「そうだ」
「じゃあ、俺も?」幻は自分の顔を指さした。「俺も母さんが作り出した偽物なのか?」
「……」
奏汰は、重々しく頷いた。
どこか申し訳なさそうな彼の表情を見て、幻は鼻で笑い飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、かろうじて踏みとどまって会話を続けた。
「じゃあさ、ここが夢の世界だって納得させる証拠はあるの? あるなら見せてくれよ。それなら信じる準備くらいはしてやるから」
「証拠か……」
奏汰は顔を上げた。そして眩しそうに目を細め、しばらく空を仰いでから、再び幻へと視線を戻した。
「――多すぎる」
奏汰は言った。
「どんなに優れた想像力で精巧に再現したつもりでも、結局はまだ十七歳の未熟な頭が作り出した世界だからね。欠陥だらけなのも無理はない」
「だから、その欠陥ってやつを提示してくれよ。口先だけじゃなくてさ」
「君も毎日目にしているはずだよ。例えば、紬の姿とか」
「……は? 母さんの姿がどうしたっていうんだ」
奏汰は少し間を置いた。言うべきかどうか迷っているようだったが、やがて幻に問いかけた。
「彼女、今年でいくつだ?」
幻は頭の中で計算してから答えた。
「四十一だけど」
「四十一か。それなら、君を二十五歳くらいのときに産んだ設定なんだな……」
奏汰は独り言のように呟くと、続けて訊いてきた。
「君は本当に、紬がその年齢に見えるのか? 四十一歳にしては、あまりにも若すぎないか?」
「ああ、その話か……」幻は肩をすくめた。「まあ、母さんはかなりの童顔だよ。一緒に歩いていると、時々高校生カップルじゃないかって誤解されるくらいだから」
「無理もない。紬は実際に高校生なんだから」
「……」
「紬は童顔なんかじゃない。本当に十七歳の女子高生なんだ。現実の紬の姿が、夢にもそのまま反映されているだけ。なんで外見を夢の設定に合わせなかったのかは俺も分からない。老いた自分の姿を想像するのが難しかったのか……あるいは、単純に具現化したくなかったのか……」
幻は、無意識に眉間に皺を寄せていた自分に気づき、慌てて表情を緩めた。だが、揺らぎ始めた動揺を抑えることはできなかった。
――確かにおかしい。
改めて考えれば、紬は非現実的なほど若かった。
それをなぜ今まで不自然に思わなかったのか、今さらながら不思議でならなかった。
「でも……」それでも幻は反論を試みた。「だとしたら、なんで周りの人間は疑問を持たないんだ? 俺だけじゃない。今まで母さんの若さを深刻に指摘した人なんて、一人も……」
そこで言葉が詰まった。
その理由を、奏汰が代弁する。
「そりゃあ、夢だからだよ。夢の中では、たいていの不都合はスルーされる。現実ではあり得ない歪んだ状況でも、『夢の中の論理』に沿って、自然に受け入れてしまうだろ?」
幻はゆっくりと、何度も首を横に振った。
「こんな馬鹿げた話に真面目に反論したくはないけど……」
幻は言った。
「分かった。百歩譲って、お前の言うことが本当だとしよう。ここが母さんの夢の世界だとする。じゃあ、母さんはなんでこの世界を自分の思い通りにしないんだ?」
「……どういう意味だ?」
「母さんは、週末も休まずに毎日働いてる。掛け持ちまでしてさ。表には出さないけど、かなり疲れてるんだ。もし本当に思い通りになる夢なら、お金なんてわざわざ稼がずに作ればいいじゃないか。何もかも好き勝手に操って、神様みたいに楽しく暮らせばいいだろうがよ」
「紬はね、」奏汰は静かに答えた。「本人も、ここが夢の中だとは気づいていないんだ。自分の記憶や意識さえも操作してしまったから。この夢を、『現実』として認識するために」
「なんでわざわざそんなことを……」
「俺にも分からない。ただの推測だけど、たぶん君に『普通の』母親として接してあげたかったんじゃないかな。何でもできる創造主みたいな存在じゃ、リアリティがないだろ? 下手したら、君に夢だと見破られてしまうかもしれないし」
「見破られるわけないだろ。創造主なら、俺の意識なんて簡単に操作できるはずじゃん」
「それが……」
奏汰は言葉を切り、少し間を置いた。彼の瞳に、鋭い光が一瞬だけ宿った気がした。
「不思議なことに、君だけには干渉できなかったんだ。たった一人、君だけが例外だった」
「干渉できなかった……? どういう意味だよ」
「紬が夢の中のすべてを意のままに操れても、君にだけはそれが通用しなかった。もしそれができていたら、君はそもそも生まれることさえ――」
奏汰は突然言葉を止め、視線を窓の外へと走らせた。その視線の先、学校の正門に数台のパトカーが滑り込んでくるのが見えた。
「まずいな」奏汰が忌々しげに呟いた。「もう嗅ぎつけられたか」
「……お前を捕まえに来たのか?」
「ああ。そろそろ行かないと」
幻はパトカーから降りてくる警官たちを見て、咄嗟に奏汰の手首を掴んだ。
「やっぱり犯罪者だったんだな! いつから母さんをストーキングしてたんだ!」
「違うって! 全部説明しただろ!」
奏汰は腕を振りほどこうとしたが、幻は力を込めて離さなかった。それでも、本気を出せば振り切れるはずなのに、奏汰はふと腕の力を抜いた。そして、逆に手首を掴んでいる幻の手の甲に、自分のもう片方の手を重ねた。
「頼む」
奏汰は言った。
「この世界で紬の心を変えられる存在がいるとしたら、それは君だけなんだ」
「またその話かよ」幻は露骨に嫌悪感を示した。「もうあんたの妄想は聞き飽きた」
「妄想じゃない! 信じてくれ。今の状況を変えられるのは――」
「じゃあ、あんたがやればいいじゃん!」
幻は思わず怒鳴りつけた。自分でも驚くほどの激昂だったが、抑える気にはなれなかった。
幻は握っていた奏汰の手首を投げ出すように放して言った。
「そんなに母さんのことをよく知ってるなら、職場だって知ってるだろ? 俺に言わないで、あんたが直接会って説得しろよ。邪魔はしないから」
「俺じゃダメなんだって言ってるだろ」
奏汰は校門の方に視線を固定したまま言った。見れば、騒ぎを聞きつけた警官が三人がかりでこちらに近づいてきている。そして幻は絶句した。
三人とも、その手に拳銃を握っていた。
「あの人たちが見えるか?」
奏汰は緊迫した口調で言った。
「俺を捕まえに来たんじゃない。殺しに来たんだ。夢の中で死ねば、強制的に意識を弾き出されるからな。遠く離れていてもこのありさまだ。もし俺が紬に近づいたらどうなると思う? 自衛隊が出動するかもしれない」
「……っ」
「目立った瞬間に俺は消される。でも、君は違う。紬は、君だけは消せないんだ。消せないだけじゃない、消そうともしない。なぜなら、この夢は君一人のために作られ、維持されているから。だから――」
突如、校庭に銃声が轟いた。
幻は反射的に身をかがめた。間髪入れず、数発の銃声が続く。弾丸が幻の髪を掠めて背後の石像を砕き、飛び散った破片が幻の頬を打った。
悲鳴があちこちで上がり、校庭はパニックに陥る。
警官たちは幻の、正確にはその隣にいる奏汰に向かって、無差別に引き金を引き始めた。
逸れた弾丸が教室のガラスを砕き、アスファルトを打って火花を散らす。
幻は両手で頭を抱え、必死に体を丸めた。
極度の恐怖で思考が麻痺する中、奏汰が幻の手を引いて太い木の影に隠してくれた。
彼は何かを伝えようと口を開いたが、銃撃が激しすぎて断念した。
奏汰は幻の側を離れ、警官たちの反対方向へと駆け出した。校舎の角を曲がり、その姿を消す。
すぐに警官たちが、幻が隠れている木の裏へ回り込んできた。彼らは幻を一瞥し、奏汰がいないことを確認すると、すぐに散り散りになって追いかけていった。
その後も断続的に銃声が聞こえてきたが、音は徐々に遠ざかっていった。
そして昼休みが終わる頃には、まるで何事もなかったかのように、学校には元の静寂が戻っていた。