一夜にして、これまでの人生のすべてを否定された。
いや、人生どころか、自分という存在の根源さえも。怒りを超え、底知れない虚しさが広がっていた。
ここが夢の中だという事実は、意外なほどすんなりと、淡々と受け入れられた。もしかしたら今朝、電車で奏汰に出会ったあの瞬間から、心のどこかでは覚悟していたのかもしれない。
あるいは、生まれた瞬間から、ずっとうすうすと気づいていたのではないかとさえ思えた。
否定する気力もなかった。
幻は、これからどうすべきかを考えながら歩いた。だが考えに没頭するあまり視線が下がり、地面を見つめて歩いていたその時。
反対側からやってきた誰かと、肩が強くぶつかった。
無視して通り過ぎようとしたが、「おい」という低い声とともに、重たい掌が幻の肩を掴んだ。幻は仕方なく足を止め、振り返る。
他校の男子生徒たちだった。
揃って坊主頭で、がっしりとした体格をしている。
それぞれ野球部のマークが入ったボストンバッグと、バットケースを抱えていた。
彼らの中で、幻の肩を掴んだ最も険悪な顔の部員が吐き捨てた。
「ちゃんと前見て歩けよ」
幻は謝って済ませようとしたが、ふと、考えを変えた。
「前を見ろって?」
幻は男を真っ直ぐに睨みつけた。
「そんなことして、何が変わるんだよ」
「……あ?」
「今、俺はな、お先真っ暗で何も見えないんだよ」
野球部員は肩から手を放すと、今度は幻の胸ぐらを鷲掴みにした。
「なんだこいつ。喧嘩売ってんのか」
幻は、今にも殴りかかってきそうな男の形相を見つめ、不敵にクスリと笑った。それどころか、背後に控える他の部員たちをも見渡して言い放った。
「お前らに教えてやろうか? 実はここ、現実じゃないんだよ。誰かの夢の中なんだ。……意味、わかるか?」
「…………」
呆然と立ち尽くす彼らに向かって、幻は淡々と説明を続けた。
「ここはな、俺の母さんが見ている夢の世界なんだ。俺たちは生身の人間なんかじゃない。ただの想像の産物に過ぎないんだよ」
すると、他の部員たちが慌てて駆け寄り、幻の胸ぐらを掴んでいた男を宥め始めた。
「行こうぜ」「関わるな、頭のおかしい奴だ」「無視しろ」――そんな囁きが幻の耳にも届く。
結局、男は忌々しげに手を離し、野球部員たちはそのまま引き返そうとした。
「どこへ行くんだよ、このタコどもが」
幻がその背中に向かって吐き捨てると、彼らの足が止まった。
今度は、宥めていた部員たちの表情にも険が走る。幻は挑発を続けた。
「冗談に聞こえるのか? 世界で俺一人しか知らない真実を、わざわざ教えてやってるっていうのに……」
言葉が終わるより早く、拳が飛んできた。
スイングのような重い一撃を食らい、幻は後ろに倒れ込む。
呻きながらよろよろと立ち上がると、手の甲で口元を拭った。べっとりと血がついている。
幻はそれをズボンで乱暴に拭き取ると、殴った男に向かって突進した。
揉み合いになり、すぐさま他の部員たちが割って入った。引き離されるまでの短い間に、顔面を何度も殴打される。
衝撃で視界が激しく揺れ、目の前に火花が散った。
痛い。ひどく痛かった。
けれど、その痛みがかえって安心をもたらした。
ひりひりとした熱さの中から、烈烈たる希望が湧き上がる。これほど生々しく痛みを感じるのなら、やはりここは現実なのではないか?
「もっと……もっと殴ってくれ!」
幻は制止する部員たちを必死に振り払い、再び男に詰め寄った。そして、藁をも掴む思いでその胸ぐらを掴み返す。
「やっぱり、ここは現実なんだろ? あいつの言ったことは全部嘘なんだろ? 電車で見た景色も、ただの幻覚だったんだよな!?」
「何言ってんだ、こいつ……」
「頼む、そうだと言ってくれよ! なあ!」
殴られた部位の痛みが、徐々に遠のいていく。
幻はさらなる痛みを求めて食らいつこうとしたが、相手は薄気味悪くなったのか、自ら幻を突き放した。
焦燥に駆られた幻は、周囲を見回して部員の一人が持っていたバットを奪い取った。彼がバットを狂ったように振り回すと、部員たちは悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように退いた。
瞬く間に、幻を中心に空白の円が描かれる。
バットが誰かに当たることはなかったが、もはや近づこうとする者はいなかった。
「もっと強く殴ってよ!」幻は絶叫した。「生きている感覚が欲しいんだ……拳じゃ足りない、そのバットで俺を叩き潰してくれ!」
野球部員たちが呆気に取られ、遠巻きに幻を見つめている中、鋭いホイッスルの音が響いた。
振り返ると、一人の警官が自転車でこちらへ急行してくるのが見えた。
その制服を目にした瞬間、幻の体から一気に力が抜けた。いくら夢だと疑っていても、公権力に向かって凶器を振るう勇気はなかった。
腕の力が失せ、バットの先がアスファルトを打つ鈍い音が響く。
幻はそのまま獲物を捨て、大人しく連行された。
交番の椅子に座り、ぼんやりと虚空を見つめていると、ほどなくして紬が到着した。
紬は中に入るなり、幻の姿を見て絶句する。彼女はしばらく無言で息子を凝視していたが、やがて警官との話し合いを始めた。
幻の席からは距離があり、声も低かったため、詳しい会話の内容までは聞き取れない。
警官は腕を組んだまま説明を続け、時折、幻の方を冷ややかな目で見やった。紬はその合間に、警官や被害者である野球部員たちに向かって、何度も、何度も深く頭を下げて謝罪を繰り返していた。
十分ほど経ち、ようやく話し合いが終わったようだった。警官は紬に何度か頷くと、幻には一言も掛けずに自分の席へと戻っていった。
紬が幻のそばに歩み寄る。彼女は立ったまま幻を見下ろし、抑えた声で告げた。
「……帰るよ」
家に帰り着くと、幻はそのまま自室に逃げ込もうとしたが、紬に呼び止められた。
二人は食卓を挟んで向かい合った。
幻は机の一点を見つめて動かず、紬は彼の切れた唇に黙々と軟膏を塗っていく。その間、会話は一切なかった。
重苦しい沈黙だけが、二人の間に横たわる。
手当てを終え、救急箱の蓋を閉めてから、紬がようやく口を開いた。
「……どうして、あんなことしたの?」
幻はうつろな声で答えた。「肩がぶつかったから」
「たかがそれだけの理由で、あそこまでしたの?」
「……ああ」
「嘘。本当のことを言って」紬の声に鋭い力が籠る。「さっき学校からも連絡があったわ。無断で早退したって。今日、何があったの? ねえ、幻。母さんに話して」
「今日、何が、あったか……」
幻は校庭に響いた乾いた銃声や、あの電車の窓の外に広がっていた虚無を思い出し、紬に問いかけた。
「……ところでさ、交番ではどうやって話をつけたの? お金でも払った?」
「何言ってるの。ただ謝って、家でちゃんと叱るからって約束して済ませたのよ」
「謝った?」幻は思わず自嘲気味に笑った。「それだけで、許してくれたのか」
紬は微かに頷いた。「だって、幻はまだ高校生だから……」
「それにしてもおかしいと思わないか? 俺はただ喧嘩をしただけじゃない、凶器まで振り回したんだ。一歩間違えれば、誰かを殺していたかもしれない犯罪者なんだよ。それなのに少年院どころか、何の処分もなしに帰されるなんて。触法少年に当たる年齢でもないのに、どうしてそんなに簡単に許されたわけ?」
「さあ……母さん、法律のことなんてよく分からないから……」
「ああ、そうか」
幻は深く頷いた。
「母さんが法律を知らないから、俺は何事もなかったかのように無事に帰れたんだな」
「どういう意味?」紬が怪訝そうに眉をひそめた。「何が言いたいの?」
「母さんさ」
幻は本題を切り出した。
「なんで、そんなに若いの?」
「……え?」
「昔からずっと不思議だった。母さんのその異常な若さ。会う人全員が、最初は本当に高校生だと錯覚するじゃないか」
「それは……」紬は言葉を選びながら答えた。「うちの家系はみんな若作りな顔立ちなのよ。私だけじゃなくて、おじいちゃんやおばあちゃんだって、四十代にしか見えないでしょ?……急にどうしてそんなこと聞くの?」
幻は改めて思い返してみた。確かに祖父母も、年齢にそぐわないほど若々しかった。
「本当は、」幻は言った。「二人とも本当に四十代なんじゃないのか?」
「何を言ってるのよ、さっきから。それより幻、話を逸らさないで母さんの質問に答えて。一体、学校で何があったの?」
幻は昂ぶる気持ちを鎮めるように溜息を吐き、答えた。
「石原奏汰っていう人に会ったんだ」
「えっ!?」紬が目を見開いた。「あの人、接近禁止命令を破って、ついに……」
「やっぱり、知ってる人なんだな」
「あの人、何か言った? もしかして、幻に何か酷いことを……」
「だから、知ってる人なのかって訊いてるだろ」
「……うん」
紬は頷くと、姿勢を正して座り直した。
「幻、ごめんね。今まで隠していて。あの人はね、幻のお父さんなのよ。実は、生きていたの。子供の頃に事故で死んだって教えたのは、嘘。彼と私は離婚したんだけど、別れ方があまりにも酷かったから……。だから、いないことにした方が幻のためだと思って、ずっと隠していたの」
「……」
「あの人に何を言われたの? 一緒に暮らそうとか、そういう話?」
「いや」
「じゃあ、何を……」
「俺が、『偽物』だって」
電車の中で感じた目眩が再び襲ってきたが、幻は耐えて言葉を絞り出した。
「俺は偽物で、この世界も全部偽物で……ここはただ、母さんの夢に過ぎないんだって」
「な、なんて……」紬は困ったように苦笑した。「あの人、そんなこと言ったの? おかしいわね。変な冗談を言う人じゃなかったのに……。見ないうちに性格が変わっちゃったのかしら。いい?幻、よく聞いて。これからはあの人が近づいてきたら、すぐに逃げるのよ。目も合わせないで、その場で警察に通報しなさい。わかった?」
「通報する前に来てたよ、警察は」
「……え?」
「校内で銃まで撃ちやがって、そのせいで大騒ぎになったんだ。知らなかった?」
「知らない……。聞いてないわよ、そんな話」
紬は強張った笑みを浮かべた。
「さっきから何よ。もしかしてジョーク? 珍しいわね、幻がそんな冗談を言ってくれるなんて。全然面白くないけど……」
「冗談じゃない」
幻は淡々と、けれど鋭く言った。
「本当に学校で起きた出来事なんだよ。とにかく、俺は石原奏汰の話を信じることにした。あの人の話じゃ、現実の母さんは今、昏睡状態で死にかけてる。だから母さんを目覚めさせてくれって頼まれたんだ。だから母さん、もういい加減、この夢から目を覚ましてくれ」
紬はぽかんとした顔をした後、ゆっくりと、何度も首を横に振った。
「夢って……何言ってるのよ、幻。そんなわけないじゃない」
彼女が幻の手に触れようとした瞬間、幻は反射的にその手を跳ね除けた。
「触るな!」
思わず大声が出る。
「なあ、母さん。ここが母さんの夢の中だとしたら、俺は一体何なんだ? ただ母さんが作り出した、ままごとのおもちゃか何かなのか?」
「何の話か、さっぱり……」紬の瞳が不安げに揺れた。「幻、さっきから一体何を言ってるの?そんな変な話はやめて。母さん、ついていけないから」
「嘘だ。本当は全部知ってるくせに、知らないふりをしてるだけなんだろ? ここが夢だって分かっていて、俺をずっと騙し続けてきたんだろ!」
「違う……。私は本当に、幻が何を言っているのか理解できないの。だからもう、こんな話はやめよう? あの人はもう二度と幻に近づけないようにするから……」
「俺は本当の人間じゃなかった……」
声に涙が混じり始める。
「俺の人生も、思い出も、全部偽物だったんだ」
「違うってば! 幻、あなたは『本当』よ」
紬が必死に、言葉を詰まらせながら訴えた。
「あなたは……幻は、確かにここにいる。ちゃんと生きている。だからもう……」
「母さんの頭の中でしか生きてないんだろ!」
幻はかっと叫んだ。
「俺は生きてない。いるだけだ。俺はただの、母さんの妄想に過ぎないんだよ!」
ショックに打ち抜かれた紬の顔を見ながら、幻の昂ぶりは徐々に引いていった。
そして、震える声でぽつりと吐き出した。
「こんなことなら……いっそ、生まれてこなければよかった」
「……」
口にした瞬間、激しい後悔に襲われたが、言葉を取り消すことはできなかった。
幻が紬の顔を盗み見ると、思わず息を呑んだ。彼女の顔色は急速に土気色へと変わり、呼吸が激しく乱れ始めていたのだ。
「……母さん?」
紬の息が絶え絶えになると、幻は椅子を蹴って彼女の元へ駆け寄った。
「母さん。どうしたの?」
紬の呼吸に、次第に濁った呻きが混じり始める。まるで、今にも生命の灯が消え入りそうだった。
幻は早速救急車を呼んだ。すると、通報から一分もしないうちに救急車が到着し、救急隊員たちが担架を抱えて家の中へと飛び込んできた。彼らは迅速に紬を収容し、幻もまた保護者として同乗した。
救急外来に運び込まれるなり、紬は医師や看護師たちに囲まれた。
彼女は搬送中にすでに意識を失っていた。医療スタッフが慌ただしく動き回る中、ベッドサイドモニターが接続される。
直後、ピーという単調な電子音が幻の耳を突き刺した。
「母さん……」
あまりに唐突だった。
幻はどこか浮世離れした感覚のまま、ふらふらと紬に近づこうとした。だが医療スタッフに制止され、除細動器が運び込まれる。
医師が心臓に電気ショックを与え始めた。紬の上半身が機械の衝撃で跳ね上がり、そして力なく落ちる。
それを何度も繰り返したが、モニターの水平な直線が波打つことはなく、やがてスタッフたちはその手を止めた。
幻は彼らの沈痛な表情を見渡し、茫然と尋ねた。
「……死んだんですか?」
声が小さすぎたのか、誰も答えなかった。代わりに看護師が紬から酸素マスクを取り外し、静かに白い布を彼女の顔に被せた。
その儚すぎる最期を目の当たりにして、幻は悟った。ここが夢か現実か、自分が本物か偽物か、そんなことはもはや重要ではなかった。
母を愛する気持ちだけは、彼の中に確かに存在していた。
たとえこの感情さえも操作されたものだとしても、構わなかった。
幻は紬の傍らにひざまずき、彼女の手を握った。体温はすでに失われ始めていた。
「母さん、ごめん……」
幻は囁いた。
「俺が悪かった。言い過ぎた。ごめん……ごめんなさい。だから……」
目を覚まして、と言おうとして、ハッと我に返る。
考えれば、紬は今、ここで目を覚ますべきではなかったのだ。この偽物の世界で死に、現実のあちら側で目を覚まさなければならない。
視界が急激に滲む。
袖で拭おうとすると、布地がすぐに濡れた。幻の記憶にある限り、それは人生で初めての涙だった。
涙腺なんて枯れていると思っていたが、自分にも泣く資格があったのだと気づき、微かな安堵を覚えた。
そして何より、母がこの「悪夢」から逃れられたことに、深く安堵した。
もちろん、このまま自分が消滅してしまうかもしれない恐怖はある。けれど、母が「本当に」死んでしまうことに比べれば、耐えられないことではなかった。
母を助けるためなら、自分はどうなってもいい。
いや、そう思える自分でありたいと、幻は誓った。
「大丈夫。これで、全部うまくいくはずだ」
溢れ出しそうな疑念を抑え込み、幻は無理に微笑みながら、自分に言い聞かせるように繰り返した。
「……きっと、これでよかったんだ」