← 目次へ戻る

12


紬の体で目覚める日々は、その後も途切れることなく続いた。  容赦なく過ぎていく時間の中で手をこまねいているわけにもいかず、幻は「紬」として生きる決意を固めた。  彼女がいつ戻ってきてもいいように、不自由なく体を動かせる状態にしておきたかった。


 幻はまずリハビリに打ち込んだ。  最初の数日間は、夢のなごりに意識をさらわれ、常に朦朧とした感覚に苦しめられた。  自分の体ではないという強烈な違和感から、しばしば激しい嘔吐感に苛まれることもあった。  だが、日が経つにつれて症状は和らぎ、やがて思うままに体を動かせるようになっていった。


 一週間が経過し、幻は退院の日を迎えた。  祖父の車に揺られながら窓の外を眺めると、強烈な既視感と得体の知れない新しさが同居する景色が流れていった。  車が走っているのは、間違いなく幻が住んでいたあの街だった。  やがて家に到着し、幻は車を降りる。  十七年間暮らしてきたはずの二階建ての一軒家を見上げ、淡い期待が胸をかすめる。  もしかしたら、すべては元通りに戻ったのではないか。  自分は夏休みの間、少し遠出をしていただけで、今ようやく帰ってきたのではないか。  このまま家に入れば、「おかえり」といつものように母が迎えてくれるのではないか。  幻は祈るような心地で家の中に入った。 「母さん」と叫びたい気持ちを必死に抑え、室内を隅々まで探し回る。だが、そこにあるのは静寂だけで、期待はすぐに落胆へと変わった。  重い足取りで自分の部屋に戻ると、そこに彼女がいた。 「……母さん!」  幻は興奮して駆け寄ろうとしたが、すぐに立ちすくんだ。 彼を迎えたのは、姿見の鏡に映った紬の姿だった。  幻は昂ぶる胸を溜息で鎮め、鏡の中の母と正面から向き合った。  鏡の中の彼女は、何とも形容しがたい表情を浮かべていた。喜んでいるようでもあり、何かに怯えているようでもあり、あるいはただ虚脱しているようにも見える。 「母さん」  幻は呟いた。 「一体、どこにいるの?」  返事を待ち続けるうちに、ドアの向こうから「紬?」と呼ぶ祖母の声が聞こえ、ハッと我に返った。  幻は一瞬ためらったが、気を引き締めると「紬」を演じる覚悟を決めてリビングへと向かった。


 幻は、奏汰以外の周囲に対して「記憶喪失」を装うことにした。  外傷がなかったため、精密検査や心理カウンセリングを受ける羽目になったが、それがかえって「解離性健忘」という隠れ蓑を与えてくれた。  おかげで幻は、波風を立てずに記憶を失った者のフリを続けることができた。  最初のうちは呼び方に馴染めず、祖父母を「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼び間違えたり、一人称を「オレ」と言いかけたりするミスが目立った。そのたびに祖母は静かに涙をこぼし、幻は慌てて「もうすぐ思い出すから」と彼女を宥めた。


 紬としての生活そのものには、すぐに順応した。  周囲の環境が幻の知る世界と酷似していたため、戸惑うことは少なかった。  紬の仕草や雰囲気を完璧に模倣するのは不可能だったが、器である身体が本物である以上、些細な変化を気にする者はいなかった。  何より「記憶喪失」という設定が、あらゆる違和感を塗りつぶしてくれた。  祖父母を「お父さん、お母さん」と呼ぶことへの抵抗が薄れてきた頃、夏休みが明けた。  悩んだ末に、幻は登校することにした。  気乗りはしなかったが、すべては紬のためだった。  出席日数が足りず留年させるわけにはいかない。  自分のせいで、彼女が大切に守ってきた日常に傷をつけることだけは避けたかった。  制服に袖を通し、全身鏡の前に立つ。  そこに映る紬は、やはり四十歳の女性などではなく、疑う余地のない瑞々しい女子高生だった。  理不尽な思いがこみ上げ、思わず不貞腐れた顔をすると、それが記憶の中の母の拗ねた表情と瓜二つで、不意に申し訳ない気持ちになった。  幻は首を振って雑念を払い、今度は鏡に向かってにっこりと微笑んでみる。そこには、幻が一番好きだった母の顔が浮かんでいた。  彼はその笑顔を強く目に焼き付け、部屋を後にした。


 学校生活も、驚くほどすぐに馴染んだ。  校内の配置や教室の空気、自分の座席に至るまで、幻の知る世界と完全に一致していたからだ。  ただ、人間関係だけは現実の形に修正する必要があった。  幻の友人がここでは奏汰の友人であったり、紬が幻の知らない女子グループの輪に加わっていたりする。  幸い「記憶喪失」を口実にあれこれと尋ねることができ、クラスメイトたちも親切に教えてくれた。  幻は、自分の人生がこの「本物の日常」を雛形に構築された偽物なのだと改めて思い知り、暗い気分になった。それでも、それを意外なほど淡々と受け止めている自分にも気づいていた。  幻は日が経つにつれて、「日常」という感覚がじわじわと暮らしの中に染み込んでくるのを感じていた。  紬としての生活に、少しずつ慣れ始めていた。  何ならこのままずっと紬の体で生きていても大した問題はないのではないか――そんな考えがふと頭をよぎり、そのたびに幻は母の、いや自分の両頬を痛くなるほど叩いた。  自分自身への苛立ちを抑えきれなかった。だが、どんなに自分を叱りつけても虚しいだけだった。  そして、紬が戻ってくる気配は、一向になかった。  たとえ戻るにしても、どこからどう手をつければいいのかさえ五里霧中だった。  夢を見ることさえできれば、その中で母を捜し回ることもできただろうが、幻はこの二週間、一度も夢を見ることができなかった。  奏汰が明晰夢を試みても、毎回失敗に終わる。結局、紬の方から現れてくれるのを待つ以外、手の打ちようがなかった。  幻は、もう二度と自分がいた世界には戻れないのではないかという、拭い去れない予感に震えていた。