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第30話

面談


 私たちは中に入り、ドアを閉めた。  すると同時に、雨の音が聞こえてきた。  喫茶店の外では雨など降っていないのに、室内から見える外の景色は雨が降り注いでいた。  どういう仕組みかと考えると、さっきの落ち着いた子供の声が飛んできた。 「この喫茶店の外は月じゃないんだよ」 「じゃ、どこですか?」  カナが好奇心いっぱいの顔で尋ねると、その子が答える。 「地球だよ」  カナの声がさらに輝く。 「地球?! 私たち、もう地球に着いたんですか?」 「違う、違う」少女が否定する。「この喫茶店の外が地球ってこと。ここ自体は地球じゃないよ」 「じゃ、ここから出たら地球に行けるんですか?」  私が懐疑的に尋ねると、変わらず落ち着いた声が返ってくる。 「いや、出たら月だよ。ちょっとややこしい仕組みなんだ、ここは」 「そうですか……」  訳のわからない話はそこまでにして、私は喫茶店の室内を見回した。  雨の日にぴったりな、こじんまりとしながらも広々とした空間。古い木の温もりと、マスターの落ち着いた声に似た、穏やかな香りが漂う心地よい場所だった。 「いい店ですね」  ぽつりと呟くと、マスターが愛らしい笑みを向けてくれる。 「ありがとう」  マスターは9歳くらいにしか見えない幼い少女だった。  まるで小学校から帰ってきたばかりのような顔つきだが、深く淹れたお茶のような色の瞳は、何万年、何十万年も生きてきたウミガメのような落ち着きを湛えていた。  私よりずっと古いモデルだと直感した。 「何を飲む?」  マスターが、控えめな少年のような短い白髪を片手でかきながら尋ねてくる。 「水、ありますか?」  私が尋ねると、彼女は答える。 「もちろん、あるよ。彼女は?」 「私も暶君と同じものでお願いします」  マスターは後ろを向き、厨房――いや、シンクや調理台、あるいはカクテルカウンターのような場所で、30秒ほどかけて丁寧に水を2杯用意し、カウンターに置いた。 「どうぞ。座って、座って」  飲み物が出されてから、私たちは席に着いた。長いバーカウンターの右から3分の2あたりだ。 「飲んでみて」マスターが言う。「水、飲んだことある?」 「いいえ、初めてです」  私が言うと、カナも続く。「私も」 「じゃ、ゆっくり飲んだ方がいいよ。お腹壊さないようにね」  私は緊張しながら、透明なグラスに入った水を手に取った。酸素2つと水素1つでできたその液体を、月に運ばれたこの場所で飲んでみる。  一口含むと、味覚センサーが即座に反応した。これまで一度も使ったことのない舌のセンサーが、「味」という未知の現象にパニックを起こし、膨大なエラーを吐き出し始めた。 「っ……!」  急に頭痛が襲い、CPUが過熱し始めた。  私は両手で頭を抱える。  0.5秒後、頭痛が収まり、ようやく「味」という感覚を味わえるようになった。  一つの感覚が目覚める瞬間だった。 「うまい……」  私が素直に感嘆を漏らすと、隣で一気にグラスを飲み干したカナが続ける。 「美味しい!」  マスターは茶色の瞳を輝かせ、軽くお辞儀するように首を傾けてくれた。 「ありがとう」  私たちは水に夢中になり、飲む行為に没頭した。カナは何度もおかわりを頼み、飲み続ける。  たくさん飲んでも腹に余裕がなくなった頃、ようやく本題に入った。  雨の音が少し強まった気がする。 「それで?」  マスターが頬杖をつき、興味深げな表情で尋ねてくる。 「貨物船に乗りたいんだよね?」 「え」私は驚く。「知ってたんですか?」 「私、ヒューマノイドロボットの心を読める能力があるんだ」 「えっ」さらに驚く。「それって、ハッキングですよね?」 「人聞きが悪いな」マスターが小悪魔的な笑みを浮かべる。「読心術だよ」  私は大いに焦った。  ヒューマノイドロボットなのに、背中に冷や汗をかくほど狼狽した。  すると、マスターはまるで私の心を覗き込むような、柔らかくも鋭い声で言った。 「心配しなくていいよ、少年。私の口は、太陽より重いんだから」 「……」 「知ってる? この太陽系に、太陽より重いものなんて存在しないのよ」 「それは分かってますけど……」 「じゃあ、もう心配しなくていいよね?」 「……分かりました」  一瞬の沈黙が、水の入ったグラスに映る光のように静かに流れた。  次に、カナがマスターに尋ねた。 「じゃあ、私たちがなぜ貨物船に乗ろうとしているのかも、全部ご存じなんですね?」 「そうね……」  だが、マスターの少女らしい顔は、複雑な数学の証明に直面したかのように一瞬曇った。  彼女は私とカナを交互に見つめ、思案するように言葉を続けた。 「つまり、人間を知りたい、ってこと?」 「知りたいというか……」私が慌てて口を開いた。「地球に戻りたいんです。私は人間だから、元々は地球にいたはずなんです。でも、なぜか今は月にいる。どうしてこうなったのか、記憶にはないんですけど……とにかく、地球に戻れば、なぜ私がここにいるのか、昔の記憶が戻るんじゃないかって」 「ふむ」マスターが腕を組み、じっと私を見つめる。「つまり、失った記憶を取り戻すために、地球に行こうとしてるんだね?」 「そうです!」私は強く頷いた。「地球は私の記憶のデータベースみたいなもの、外部メモリみたいなものだと思ってるんです。きっとそこに……」  だが、言葉を重ねるほど、自分の説明がしどろもどろになっていることに気づいた。  まるで嘘をついている人間の典型的な、言葉に詰まる瞬間。  焦りながらカナの顔をちらりと盗み見ると、彼女の青い瞳が心配そうに揺れている。  私は慌てて言葉を繕った。 「とにかく、記憶を取り戻すために、地球に行きたいんです」 「でもさ、」マスターが静かに割り込んだ。「記憶って、月でも作れるよね?」 「それはそうなんですけど……」少し苛立ちが混じる。「なぜか月の記憶は、すぐに消えてしまうんです。たぶん、月の重力が弱いせいか……」  ふと、ひらめいたように言葉が勢いづいた。 「そう! 重力です! 月の重力が弱いから、記憶がちゃんと定着しないんだ。地球にいた時の記憶も、月に来てから全部、ふわっと宇宙の彼方に溶けちゃったんです。だから、地球に行けば、強い重力に縛られた私の記憶が、どこかに保存されてるはずなんです!」 「いや、少年」マスターが首を振った。「記憶と重力は関係ないよ」 「……」  その言葉に、私は何も言い返せなくなった。  気まずさを紛らわすように、半分残ったグラスを手に取り、冷や汗を飲み込むように一気に水を飲み干した。 「とにかく」マスターが話を引き取った。「事情は分かった。君たちは地球に行く貨物船に乗ろうとしてるんだよね?」 「はい」  言葉を失った私の代わりに、カナがはっきりと答えた。  マスターは組んでいた腕をほどき、スツールから降りた。  バーカウンターの高さのせいで、彼女の小さな姿が一瞬視界から消える。だが、軽やかな足音がバーの向こうから響き、やがて彼女はカウンターを回って私たちの前に現れた。  背広を着た彼女は素足で、歩くたびに不思議な音が響く。  まるでピアノのFコードが穏やかに鳴り、私が彼女を見るとFの音が、視線を外すとCの音に変わるような、奇妙な調和を奏でていた。 「ついてきて」  マスターはあくびでもするような気怠い表情で、私とカナを手招きした。  私たちはスツールから降り、彼女に近づいた。彼女は一瞬、私たちを天秤にかけるような計算的な視線を送った後、踵を返して歩き出した。  私とカナは彼女の後ろをついていく。  マスターは店の表側ではなく、裏手へと向かった。そこには、店と厨房を隔てるような、厚手のビロードのカーテンが揺れている。彼女がそれをそっとめくると、私たちも続いて中に入った。  そこはもうキッチンではなく、広大な裏庭のような空間だった。  アイボリー色にほのかに発光する芝生が敷き詰められ、高校の運動場を十倍に広げたような滑走路が広がっていた。