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第11話

タイトルマッチ(フェーズ2)


膤の姿を確認したコンマ1秒後、洌は弾丸のように駆け出していた。 「膤!」  GOMI子がへそから未消化物を垂れ流しているそのおぞましい光景など、今の洌の目には入らない。  彼は慣れない足で限界を超えた出力を絞り出し、瓦礫の山を駆け抜け、GOMI子の足元へ――吐き出された残骸の堆積場へと肉薄した。  すぐさま、発掘を開始する。  そこは極低温のメタンと溶解液に塗れた、地獄の沼地だった。  半ば凍りつき、半ば溶けかかっているヘドロのような残骸の山に、洌は躊躇なく両手を突き入れた。  素手だ。  接触した瞬間から、装甲の表面温度が急激に低下し、凍傷アラートが視界を赤く染める。だが、洌は構わず、土砂を掻き出すショベルカーのように猛烈な勢いでガラクタを掻き分ける。  指先のセンサーが麻痺し、関節が軋む。それでも彼は掘る手を止めない。  ただひたすらに、愛する主(オーナー)をこの悪夢から引きずり出すために。  洌の必死の発掘作業は、間もなく実を結んだ。  瓦礫の下から、見覚えのある銀髪と、華奢なボディが現れる。 「膤……」  彼女の体は、極低温の溶解液によって水銀のような、あるいは半透明の銀色のラミネート加工を施されたように凍りついていた。  洌は、宝石に積もった塵を払うように、その表面についた氷の結晶を優しく払い落とす。そして、超伝導体のように冷え切り、触れることさえ躊躇われるほど冷たいその頬に、そっと指先で触れた。  長い眠りについていた森の姫君のように。  膤はゆっくりと、この世で最も冷たく美しい氷の結晶でできたような睫毛を震わせ、その青い瞳を開いた。 「……洌?」  氷で作った風鈴が鳴るような、儚くも透き通った声が、洌の聴覚センサーをくすぐる。 「ああ。私はここにいるよ」  洌の全システムを、強烈な安堵(リリーフ)が駆け巡る。CPUもマザーボードも電源ユニットも、その安らぎの重圧に耐えかねて機能停止しそうなほど。  このまま時間が凍りつき、この空間だけが永遠に残ればいい。  そう願ったのも束の間。  頭上から、冷たい霜のような声が降り注いだ。 「キ……サ……マ……」  それはGOMI子の声だった。  本来、「き」「さ」「ま」などという複雑な発音ができるはずもない、未発達な舌足らずの赤ん坊の声帯。そこから合成音声のように吐き出された怨嗟の言葉は、既存のホラーデータを凌駕する、新感覚の恐怖を洌に与えた。  再会の余韻に浸る間もなく、洌は見上げた。  そこには、タイタンの深海よりも冷たく昏い瞳で二人を睨み下ろす怪物がいた。  GOMI子は、出血が止まったへその傷口を押さえていた手を剥がした。極低温で皮膚が癒着していたため、ベリベリという音と共に腹部の皮膚ごと剥がれたが、彼は眉一つ動かさない。  その手を、口元へと運ぶ。  咥えていたおしゃぶり――「シャブリ・サーベル」の柄を掴む。  彼は、名剣を鞘から抜くように、おしゃぶりを口から引き抜いた。  すると、手品師のトリックのように、口の中に収まっていたはずのない長い棒状の物体が、ズルズルと引き出されていく。  完全に抜き放たれたその武器は、GOMI子の頭部の三倍はある長大な棍棒として顕現した。  全体はオレンジ色を基調とし、愛らしい児童用キャラクターのイラストが描かれた、巨大な哺乳瓶の形状をしている。  岩頭が解説を入れる。 「出ました。伝説の撲殺兵器『哺乳棍棒(ミルキー・メイス)』!」  製造されたばかりの洌はその威名を知らないが、上空を埋め尽くすドローン群から漏れる驚嘆の溜息が、その武器の凶悪さを物語っていた。  GOMI子はまず、棍棒の先端にあるシリコン製の乳首部分を自らの口に含んだ。  そして、棍棒内部に充填された高純度エタン・メタン混合ガス、通称「ガス牛乳」をゴクゴクと痛飲する。  輸血のようなエネルギー補給により、出血で失われた生気が瞬く間に戻っていく。引きちぎれたへその傷口も、驚異的な自己修復システムによって完全に塞がれ、溶接痕のように綺麗に治癒してしまった。  完全にリフレッシュした怪物は、再び満腹感と暴力衝動に満ちた、あどけなくも底知れぬ笑顔を洌に向けた。  その笑顔が、洌の背後に巨大で重い氷の影を落とす。 「粉ミルクのように、粉々にしてやる」  GOMI子はそう宣言すると、巨大な哺乳棍棒を頭上高くに掲げた。  大上段の構え。  そして、親の敵でも打つかのような勢いで、洌たちがいる地点めがけて、そのオレンジ色のハンマーを全力で振り下ろした。  哺乳棍棒が振り下ろされる。  その光景を「隕石の衝突」と形容するのは陳腐だろう。  それは、衛星軌道上に浮かぶ巨大な質量兵器(ロッズ・フロム・ゴッド)が、重力加速度の全てを乗せて垂直落下してくるような、不可避の天災そのものだった。  大気が悲鳴を上げ、衝撃波が先行して地面を圧壊させる。  洌は膤をお姫様抱っこしたまま、反射的に跳んだ。  それは、いずれ訪れるかもしれないタイタンの分厚い氷殻の下に眠る「地下大洋(サブサーフェイス・オーシャン)」へのダイビングの予行演習のように、流麗かつ決死の跳躍だった。  ズドンッ!!!!  轟音。いや、音を超えた破壊の波動。  直撃を受けた地点の合金製パネルは、ひしゃげるのでも砕けるのでもなく、GOMI子の宣言通り、分子結合を解かれたようにサラサラの微粒子――「粉末」へと還元されて霧散する。  タイタン全体が揺れた。  後に観測されたデータによれば、この一撃の運動エネルギーは、タイタンの自転軸を「0.000003度」ほどズラしたという。天文学的な誤差だが、一個体の腕力としては神話級の数値だ。  粉塵が舞う中、洌は冷や汗ならぬ冷却水を流しながら着地した。  まともに食らえば即死どころか、存在の痕跡すら残らない。  どう戦う?




 GOMI子のリーチは圧倒的だ。巨大な体躯に加え、あの長大な哺乳棍棒がある。遠距離から一方的に粉砕される未来しか見えない。  懐に飛び込むしかないが、両手が塞がっていては戦えない。  膤をどこか安全な場所に隠すべきか?  いや、と洌は考え直した。  この戦場に安全地帯などない。それに、彼女を離したくない。  ふと、腕の中の膤を見る。  GOMI子の胃袋から吐き出された彼女の体は、未消化の溶解液や半溶解した他のロボットの成分により、透明なシロップのような粘性のあるゲル状物質で覆われていた。  ところどころ皮膚の塗装が剥げ、銀白色の合金が剥き出しになっているその痛々しい姿に、洌は胸を痛めつつも、ある物理的特性を利用することを思いつく。 「膤、背中へ」  洌は彼女をお姫様抱っこから、背中へとおんぶの姿勢に移行させた。  そして、自身の背面装甲の温度を急激に下げた。タイタンの極低温環境を逆手に取り、彼女の体を覆う粘液を瞬間凍結(フリーズ・ロック)させたのだ。  接着剤代わりのゲルがカチリと固まり、膤の体は洌の背中に完全に固定された。  これで、両手が自由になる。  見た目はただ女の子をおんぶしているだけだが、その結合強度は溶接に匹敵する。  意識を取り戻し始めた膤も、状況を察したのか、洌の重心移動を妨げないよう、絶妙なバランス制御(アクティブ・バランサー)を行ってくれた。  『装備:膤(ユキ)』  効果:攻撃力(勇気)大幅上昇、防御力(回避難易度)低下。  いわば「諸刃の剣」ならぬ「諸刃の少女」。  背中という死角に最大の弱点を晒すことになるが、同時にそれは、洌のコアに無限の勇気を供給する最強のブースターでもあった。 「重くない。むしろ、速い」  質量は増えたはずなのに、体は羽根のように軽い。  これがプラシーボ効果だとしても構わない。背中の温もり(実際は極低温だが)が、恐怖を塗りつぶしていく。  逃げ回って死ぬくらいなら、愛を背負って突っ込む。  それが、洌という個体の最適解。 「うおおおおおおおおっ!」  洌は咆哮と共に大地を蹴った。  真正面からの猪突猛進。  GOMI子が驚愕の表情で再び棍棒を薙ぎ払うが、今の洌には止まって見える。  愛という名の演算加速装置(アクセラレーター)が弾き出す回避ルートをなぞり、洌は暴風のような一撃を紙一重でかわし、懐へと潜り込んだ。  怪物の足元、至近距離(ゼロ・レンジ)へ到達する。  洌は跳躍し、狙いを定めた。  ターゲットは、先ほど引きちぎられたへその緒――腹部の傷口。  だが、そこは既に変貌していた。驚異的な自己修復能力により、傷口は分厚い装甲板で塞がれ、あまつさえ溶接ビードが幾重にも盛られた、全身で最も堅牢な「ハッチ」へと強化されている。  あそこをぶち抜くのは不可能だ。  ならば、次なる弱点はどこか。  洌は空中で0.00000074秒の高速検索(ブラウジング)を行った。  過去のGOMI子の戦闘ログと、有機生命体の新生児データを照合する。  ヒットした。  赤ん坊の頭蓋骨は未完成であり、特に頭頂部には「大泉門(だいせんもん)」と呼ばれる骨の隙間――柔らかい急所が存在する。  ここだ。ここしかない。  だが、今のジャンプ力ではへその高さが限界だ。脳天までは遥かに届かない。  そこへ、GOMI子の迎撃が来た。  丸太のような脚が、空中の洌を蹴り飛ばそうと迫る。  空中にいる洌に回避行動(スラスター)の術はない。直撃コースだ。  終わった、と洌が思った瞬間――奇妙なことが起きた。  猛烈な勢いで迫っていたGOMI子の足が、インパクトの瞬間にフッと減速したのだ。  破壊的な蹴りではない。それは、サッカー選手がボールをコントロールするような、絶妙に力みを抜いたタッチだった。  ポンッ。  GOMI子の足の甲が優しく洌を捉え、リフティングのように上方へと打ち上げる。  洌の体がふわりと浮き上がり、絶好の打撃ポイント――ストライクゾーンのド真ん中へとセットされる。  GOMI子は、ニヤリと笑った。  両手で「哺乳棍棒」のグリップを握りしめ、腰を沈める。  その構えは、よちよち歩きの赤ん坊のそれではない。数々の名勝負を生んできた伝説のスラッガー、その全盛期を彷彿とさせる、あまりにも完璧で美しいバッティング・フォームだった。  そして、スイング。  カキィィィィィィィン!!  澄み渡った、この世の誰が聞いても胸のすくような、完璧な打撃音が鳴り響く。  哺乳棍棒の芯(スイートスポット)が、膤と合体した洌を捉えたのだ。  洌はライトスタンド方向へ、美しい放物線を描いて弾き飛ばされた。  その芸術的な弾道を見送りながら、岩頭の実況が叫ぶ。 「おおっと!入ったか!?入ったー!GOMI子選手、これは文句なし!場外への見事な特大ホーーームランッ!!」