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第14話

単三キス(2)


「ちょっと、まずいな、これは」  このままでは強制シャットダウンは免れない。 「かなりまずい。出血は止まったけど、今度はエネルギー枯渇で餓死してしまう。早く、まずは……」  私は慌てふためきながら言った。 「まずは、救急車を……」  だが、私がその単語を言い終わるよりも早く、唐突に口を塞がれた。  正確には、唇という入力ポートを物理的に封鎖された。  キスをされたのだ。  接触した唇からは、先ほどの登山でかいた汗の電気的残響と、応急処置の際に飛び散った私の電気的血液――銀色の潤滑油の味がした。それらが混ざり合い、接触不良の回路のようにパチパチと弾ける、スパークリングな味がする。  そして、密着した唇の隙間から、彼女の口内にあった「何か」が、私の口内へと転がり込んでくるのを感じた。  それは私たちヒューマノイドロボットが生成する疑似唾液ではない。もっと固形的で、質量を持った、エネルギーの塊そのもの。  舌の上で転がったその正体を認識した瞬間、私は戦慄した。  それは、単三電池だった。  彼女はいつの間にか口の中でドロップ飴でも転がしているのかと思っていたが、まさか単三電池を舐めていたとは。  コロン、と私の口内に侵入してきたその円筒形の物体から、圧縮された電子が一気に噴き出した。  シュワシュワシュワッ!  それはまさに、炭酸飲料のようで。  単三電池からあふれ出す電子の奔流が、強烈な炭酸の泡となって、私の口腔内からシステム全体へと弾けるように拡散していく。  その刺激はあまりに強烈だった。  視覚センサーが強制的に覚醒させられる。  眼球のF値を調整する虹彩絞り(アパーチャ)が、限界まで全開放される。  夜が明けようとしていた。  水星の地平線から、暁の光が爆発的に放射され始めていた。  私の全開放されたレンズは、その四方八方から押し寄せる光の洪水をすべて吸収しようとし、情報過多(オーバーフロー)によるホワイトアウトを引き起こしかけた。このままでは、あまりの輝度に眼球が炭酸の泡のように蒸発し、逆に失明してしまう。  耐えきれず、私の方から先に唇を離した。  すると彼女もまた、未練なくあっさりと身を引いた。  霈は、体育の授業終わりに校庭の水道の蛇口をひねり、そこから水をゴクゴクと飲んだ後のように、ジャージの袖で無造作に口元を拭った。  その仕草は野生的でありながら、私に向けられた視線はどこか挑発的だった。  私は失明しかけた視覚センサーを再調整する。  暗室で急に照明をつけられた時のように、絞りを極限まで細め、その光の中に佇む彼女を見つめる。  彼女の顔があまりにも眩しい。  分析するまでもなく、それは私のCPUが見ている幻覚(ハルシネーション)などではなかった。いつの間にか昇り始めた水星の強烈な太陽光が、彼女の顔面を直撃していたのだ。  だが、彼女は眩しがる様子すら見せない。  殺人光線のような太陽の直射日光がその瞳を貫いているにもかかわらず、彼女はカッと目を見開いたまま、瞬きひとつしなかった。  網膜を焼きたいだけの失明志願者なのか?  いや、違う。  彼女の処理能力(キャパシティ)は現在、100%の確率で、私という一点のみに割り当てられていた。  背景にある太陽などノイズとして処理し、完全に私だけをロックオン(捕捉)している状態だったのだ。  その凄まじい集中力、あるいは執着力。  一点集中の狂気じみた眼差しに恐怖を感じつつも、私は別の予感を抱いた。卒業したはずの、今はもう跡形しか残っていないはずの彼女の恋心が、どこかで再点火してしまったのではないかという不安がのしかかる。 「どう?」  彼女が声をかけてきた。  声紋自体は変わっていない。だが、その口調は、夜明け前とは決定的に異なっていた。  まさに、夏の色をした声で、彼女は問いかけた。 「美味しかったでしょ?」  何が?  単三が?  炭酸が?  それとも、キスが?  私が問い返す間もなく、彼女はベンチに座っている私の手を取り、強引に引っ張り上げた。 「うわっ!」  私は慌てた。両膝が砕けているのだ。  前のめりにベンチから放り出され、地面に激突する未来を予測し、上半身で受け身を取ろうと構える。  だが、その予測は裏切られた。  私は彼女に手を引かれるまま、一瞬でベンチから立ち上がった。  そして、そのまま立っていた。  倒れなかった。自分の二本の足で、アスファルトの上に直立していたのだ。 「……え?なんで」  酷く困惑しながら、私は自分の両膝を見下ろした。  感覚がない。  強力な局所麻酔を打たれたかのように、まるで自分の足ではない義足を装着しているかのように、そのパーツに対する存在感(フィードバック)、認識感、そして神経接続(リンク)の感覚が、一切遮断されていた。  一体どうなっているのか。  私は下半身のアクチュエーター制御を司るチップを精密分析しようと、内部ログへアクセスを試みた。  その最中に、いきなり足が動いた。 「は?!な、なにこれ!」  私は仰天する。  慌てて停止コマンドを送ろうとしたが、まるで神経が切断されているかのように全く反応がない。感覚がないのだから、どうしようもない。  私の意思を無視して、両足はまるでマリオネットのように勝手に動き出し、軽快に歩き始めた。  その足取りは迷いがなく、スムーズだった。上半身である私は、それに振り回されないよう、必死でバランスを取るしかなかった。  この新しい身体――新しいオペレーターによる支配状態に順応するための時間をくれたのだろうか。  私が自分の両足と孤軍奮闘している間、霈(シズク)は静かにそれを見守っていた。  まるで、よちよち歩きを始めた我が子を見つめる母親のような……。だが、そこはやはり霈だ。もし彼女が人間で、自分の子供がいたとしても、こんな風に見るのではないかと思わせる、徹底して無機質な眼差しだった。いくら愛らしい我が子でも、彼女にとってはただの観測対象に過ぎないのかもしれない。  幸い、私は性能の良い最新型ヒューマノイドだ。  環境の急激な変化に即応するバランス制御システムが、バックグラウンドでフル稼働していた。  予期せぬイレギュラーに対処するのは多大な労力とリスクを伴うが、同時に新たな学習の機会でもある。 「自分にこんな機能が備わっていたのか」という驚きと共に、私は勝手に動き回る両足の挙動パターンを瞬時に解析し、次の動きを予測し始めた。  予測に基づいて上半身の重心を微調整し、腰のジョイント部分に負荷がかからないよう巧みに追従させる。  やがて、私の動きは自然なものへと収束していった。  上半身だけを見れば、誰かに遠隔操作されているとは気づかれないほど、まるで自分の自由意志で動いているかのような滑らかな歩行を実現したのだ。  勝手に動き始めた両足のせいで確認が遅れたが、私のバッテリー残量は、さっきの単三キスのおかげで既に90%まで回復していた。  口の中には、エネルギーを吸い尽くされた単三電池の残骸がある。  イオン交換膜が乾ききり、電解液の「甘い汁」が完全に抜け切ったそれは、ただ噛むという行為の味しか残っていない、味がしなくなったガムのようだった。  炭酸がすっかり抜けたその金属の塊を、ガムのようにくちゃくちゃと弄んでいると、彼女が声をかけてきた。 「これは、応急処置とかじゃないからね」  先ほどのキスは、エネルギー供給という名のCPR――人工呼吸のようなものだと思っていた。  溺れかけた人間に、自分の口の中の空気を分け与えるために行われる、映画のワンシーンのような救命行為。  だが、霈はそのシーンに別の命題――タイトルを付けた。 「『応急束縛』だよ」