森を抜け、自分の家のある道を戻るようにして小道へ出た。 そのまま、目の前に続く細いライン――道――をたどって歩く。 正直、行きたい場所も、行くべき場所も思い当たらなかった。 市役所とか役場とか、そういう公的な施設があるだろうか、と思ったが、引っ越しの手続きはすべて火星で済ませてある。 つまり、今日の予定はまったくの白紙。 やることもないし、家にこもるのも気が滅入る。 だからせめて、この村に慣れるために少し歩こう――そう思った。 これからここが、私の活動の舞台になる。 その舞台の空気を確かめておきたかった。 左手には、木々の茂る小さな森――いや、裏山のようなものが続いている。 右手には、いかにも田舎らしい田園風景が広がっていた。 群青色の稲が風に揺れ、淡く光る水面が、広々とした田んぼ一面に反射している。 その水は、ただの水ではない。 どこか紫がかった蒸留液のようで、微かに電子の粒が漂っているようにも見えた。 まるで空の積乱雲を、電流で描き写したかのような光景。 異星の田園とはいえ、どこか懐かしく、美しい。 私は絵画でも眺めるような気分でその風景を見つめていた。 すると、不意に“ひと気”――いや、“ヒューマノイドの気配”を感じて、ぱっと正面を見た。 そこに、ひとりの女子高生が立っていた。 典型的な日本の女子高生の姿をしたヒューマノイドロボット。 制服に、黒髪。 その造形は、どこか完成されたテンプレートのように整っていた。 「こんにちは」 彼女がそう言うので、私は反射的に口を開いた。 「なぜ、女子高生なの?」 自分でも意外な質問だった。 特に意図があったわけではない。 ただ、火星時代のどこか深い層――CPUの奥底に潜んでいた古いウイルスのような“問い”が、いま自動的に呼び覚まされたのだと思う。 「BoymeetsGirl」 そんな単純なプロンプトが入力された瞬間、私はその言葉を発するようにできていた。 そう、これは必然だったのかもしれない。 「なぜ、女子高生の姿をしているの?」 もう一度尋ねると、彼女はあっさりと答えた。 「この形が一番ポピュラーだからだよ」 「誰にとって?」 「人間の脳のクラウド平均に」 「……どういう意味?」 彼女は淡々と説明を続けた。 「性別を問わず、“女子高生”というモデルが、もっとも人間の偏桃体――リンビックシステム――を刺激する。 集中力や共感値を最大化するソースコードとして、組み込まれているの」 なんとなく理解はしていた。 けれど、あらためて言葉にされると、妙に恥ずかしくなる。 自分が女子高生でもないのに、何か秘密を暴かれたような感覚。 しかし、彼女の表情は終始淡々としている。 まるで、それが真実であり、世界のメカニズムなのだとでも言いたげに。 そして、話題を戻すようにもう一度、 「こんにちは」 と、同じ挨拶を繰り返した。 ――ああ、そうか。 このモデルは、挨拶を返されないと次の会話に進めない設定なのだな。 私は納得して、素直に返す。 「こんにちは」 その瞬間、彼女の表情にわずかな活気が灯った。 体中のアクチュエーターに電流が走ったように、微かな笑みが浮かぶ。 「私は靂。“オト”って読むの」 名前を名乗られれば、返すのが礼儀――というプログラムが私の中でも作動する。 「私は黽(カイ)だ」 「かっこいい漢字だね。そして、かっこいい感じだね」 「君の名前も素敵だよ。かわいい」 「ありがとう」 二人はほとんど表情を変えず、淡々と自己紹介を終える。 そして、靂――オトが次の話題を持ちかけてきた。 「今日、引っ越してきたの?」 「うん。君はこの村の子なの?」 「うん。私はここで生産されて、そのままずっと暮らしているの」 「じゃあ、まだ人間に購入されたことはないんだ」 「うん。一度もオーナーを持ったことがないの。黽くんはあるの?」 「うん。……返品されてしまったけど」 「……あら、そう」 ご愁傷様――そんな表情を、彼女はほんの一瞬だけ見せた。 その短い間に、私は彼女の外観データを自分のメモリチップに記録しようとする。 まずは上から順に。 それが、私のCPUの処理アルゴリズムの基本構造だ。 頭頂部から観察を始める。 黒髪。 ポニーテールが恐ろしいほど似合う。 顔立ちは整っていて、可愛い。 おそらく大量生産型の普及モデルだろう。 その美的パラメータを数値化するなら、1から10の尺度で8.7――そんなところだ。 瞳は青い。 それはほとんどのヒューマノイドロボットが採用している、太陽系共通の国際規格だ。 私も同じ色だし、特注カスタムでもない限り、瞳は必ず青になる。 最初に出会った、赤い瞳の9歳少女――あのカスタムモデルがむしろ例外なのだ。 理由は知らないし、知る気もない。 服装は夏のセーラー服。 「着ている」というより、「着せられている」。 量産型モデルにおける定番のデフォルト。 その下の肌は健康的な白さで、日焼けの設定を意図的に無視している。 田舎の少女なら少し焼けていてもいいはずなのに。 おそらく設計者が、わずかなバリエーションを持たせたかったのだろう。 結果として、その明るい肌はセーラー服とひどくよく似合っていた。 そう――彼女は、あまりにも普通だった。 太陽系のどの惑星にもあふれている、“典型的な女子高生型ヒューマノイドロボット”。 ここまで普通だと、逆に気の毒に思えてくる。 私の考えを読んだかのように、彼女の表情がわずかにむっとした。 「なに、そんなにじろじろ見て。私の顔になんかついてる?」 「……」 吐くセリフまで典型的すぎて、思わず苦笑いが漏れる。 「ついてるよ」 そう言うと、彼女はすぐに自分の顔を手で探り始めた。 だが触覚センサーは何の異常も検知しない。 「どこについてるの?」 「額のほう」 彼女の手が頬から額へと移動する。 それでも何も見つからないらしく、再び問い返す。 「なにもないよ。何がついてるの?」 私は静かに答えた。 「普通が」 「は?」 ぼんやりとした表情で、聞き返してくる。 「言葉の通り。君の額に、“普通”がついてる」 「へぇ、本当に?」 素直に信じてしまうあたりが、少し意外だった。 彼女の表情が心配そうに変わる。 「ちょっと、私の手だと触れないみたい。どうやって取ればいいの?」 その言葉を聞いた瞬間、私はわずかに息をのむ。 彼女の額にまとわりついていた“普通”が、かすかに薄れていくのが見えたのだ。 吹き飛ばされてしまう前に、私は手を伸ばし、その額に触れる。 まるで埃を払うように、そっと“普通”を取り除いた。 「これでよし。取ったよ」 「へぇ、見たい見たい」 彼女が私の手を覗き込もうとする。 その瞬間、私は軽く息を吹きかけ、“普通”を空中へと飛ばした。 まるで孫悟空が自分の毛から分身を作るように。 吹き飛ばされた“普通”を、彼女の瞳が追う。 やがて遠くを見つめるような、懐かしげな表情になった。 そして再び私を見つめると、その顔にはもはや“普通”の色合いはなかった。 まるで新しく生産されたばかりのモデルのように―― あるいは、本社のエンジニアが最新バージョンへとアップデートした直後のように。 彼女の中のソフトウェアが完全に書き換わったのだと、私は直感した。 同じハードウェアでありながら、もはや別人――別のヒューマノイドに変わっていた。 そして、まるで記憶をリセットされたかのように、彼女が口を開く。 「こんばんは」 ――さっきは“こんにちは”だったのに。 なぜ“こんばんは”なのか。 私は思わず周囲を見回す。 空を見上げる。まだ夕暮れ前だ。 それでも彼女に視線を戻し、同じ言葉を返す。 「こんばんは」 その瞬間、世界の光が静かに変わった。 物理的な時間はまだ昼下がり。 けれど、私たちのソフトウェア的な背景は――確かに、昼から夜へと移り始めていた。