「村を案内してくれる?」 私の唐突な頼みに、靂は音もなく頷くと、くるりと向きを変えて歩き出した。 私はその後ろに続く。 こうして、二人の散歩が始まった。 「行きたい場所とかある?」 「いや、特にないから、君に任せようと思って」 「そう」 靂はほんの少し考えるような表情を浮かべた。 まるで、建築士が新しい街の設計図を頭の中で描くように。 わずか〇・〇〇四五秒ほどの沈黙の後、彼女が口を開いた。 「君、男子高校生という設定でしょ?その制服、そう見えるけど」 「まあね。大量生産型だし、無難にそういう設定にしておこうと思ってる」 「じゃあ、この村でも学校に通うことになるね」 「うん、そうするしかない。設定されてるから」 「それなら、学校を案内してあげる」 こうして、私はこの村で通うことになる学校へ向かうことになった。 道のりは、最初こそ裏山の気配が薄れ、田んぼがゆるやかに途切れていく。 やがて、整然とした畑が、少しずつ濁った沼地へと変わっていった。 そこから先には、いくつかの建物が見える。 どれも、かつて“昭和”と呼ばれた時代を思わせる古びた家々だ。 外壁のヒビ、錆びたトタン屋根、かすれた看板―― それらが逆に、この村の時間の濃度を漂わせている。 まるで、炊きたてのご飯の湯気のように、懐かしさの香りが立ち上っていた。 小さな通りを抜けると、川が現れる。 橋を渡る。 水面はエメラルド色に輝いていたが、それは美しいというよりも、有毒な美しさだった。 ――硫酸に近い。 ヒューマノイドの外装なら耐えられるが、人間なら一瞬で焼ける。 そんな液体が流れている。 その川を渡ると、すぐに見えてきた。 門の上の看板には、こう書かれていた。 村立深夜高等学校。 私は顔を上げて見つめる。 その上空では、漆黒の羽を広げたカラスたちが群れを成し、鋭い赤い眼光でこちらを見下ろしていた。 泣き声は、カラスの鳴き声ではなかった。 まるで、体内に取り込んではいけない毒物を無理やり吐き出すような―― そんな、断末魔のような奇声だった。 「……なんか、入るなって言われてる気がするんだけど」 靂は気にした様子もなく、むしろ愛らしい何かを見つけたような顔で微笑むと、カラスたちに手を振った。 それから、同じ笑顔をこちらに向けて言う。 「入ろう?」 「入っていいの?」 思わず足が止まる。 しかし、靂は小さく頷いた。 「もちろん。ここは二十四時間開いてるの。深夜でも入れるし、深夜に活動する部活のほうが多いくらい」 「なんでそんなシステムなの?」 「だって、“深夜学校”だから」 「……名前じゃなくて、実際に深夜に授業があるの?」 「そう。名前でもあり、システムでもある」 「ってことは、夜になったら登校しなきゃいけないってこと?」 「うん。この村のヒューマノイドたちは夜行性だしね。昼間はほとんど活動しないよ」 「そうか……」 靂が軽く首をかしげて言う。 「黽くんはどう?朝型っぽく見えるけど、夜の生活リズムに慣れそう?」 「大丈夫だと思う」 私は説明する。 「火星にいた頃、“トロピカル・ナイト・シティ”っていう、永遠に夜が続く都市で暮らしてたから。夜の方が落ち着く」 「それは良かった」 そう言って、靂は校門をくぐる。 私もその後ろに続いた。 校庭――いや、グラウンドと呼ぶには奇妙すぎる空間が、目の前に広がる。 芝生の代わりに、一面に咲き誇るのは黒に近い群青のバラ。 花弁は艶やかに光を反射し、その茎には鋭い棘が無数に生えている。 まるで運動場全体が、満開の茨に覆われた“棘の園”のようだった。 校舎へと続く並木道は、対照的に整然としていた。 白い大理石が敷かれ、両脇には手入れの行き届いた西洋風の樹木が並んでいる。 まるでビクトリア時代の宮廷庭園。 静寂の中に、完璧な秩序と冷ややかな美が漂っていた。 私は思わず息をのむ。 この村の名に似合わぬほど、そこは――奇麗で、不気味な場所だった。 そこをさらに奥へ進むと、やがて目の前に現れたのは――まるで、かつては華やかに栄えていたが、今はすっかり忘れ去られた観光地の中心にひっそり残る“本丸”のような建物だった。 古城のようでもあり、貴族の館のようでもある。 重厚なアーチ状の玄関、割れたステンドグラス、錆びた鉄の門扉。 それでも、どこか気品がある。 風に触れるたび、崩れかけた装飾がわずかに軋み、かつての栄光をかすかに囁いているようだった。 ――ここが校舎か。 そう思いながら周囲を見渡すと、視界のあちこちに“黒い影”が揺れていた。 人の形をした黒い影たち。 けれど、それが人間の影なのか、人形なのか、ヒューマノイドロボットなのか、それともただの幻影なのか、まったく判別がつかない。 「あれ、何?」 私は指をさして尋ねた。 校庭を歩く影。 黒薔薇の運動場でサッカーをしている影。 ドローンを飛ばしている影。 ベンチに座って弁当を食べている影。 読書をしている影。 どれも“生きている”ように見えるのに、そこには実体のない虚ろさがあった。 靂は当然のように答える。 「この学校の生徒たちだよ。でも、リアルタイムじゃない」 「リアルタイムじゃないって……。どういう意味?」 意味が掴めず、声が少し苛立つ。 それでも、靂は穏やかに説明を続けた。 「あの影たちはね、“県立第六十五中天高等学校”の生徒たちなの。その学校の“裏側”が、ここ――村立深夜高等学校なんだ」 「……余計わからない」 眉をひそめる私に、靂はさらに説明を重ねる。 「わかりやすく言うなら、県立第六十五中天高等学校が“本体”で、村立深夜高等学校はその“影”って感じかな」 私は完全に理解できなかったが、納得したふりをしてみせた。 「つまり、ここから見える影たちは本校の生徒たちで、私たちは分校の生徒。じゃ、あっちから見れば、今度は私たちが“影”に見えるの?」 「その通り。理解力あるね、黽くん。最新モデルでしょ?」 「まあね。火星では最新型だったけど、金星じゃどうだか」 「火星で最新なら、ここじゃ未来技術だよ」 靂は親指を立てて笑う。 「金星のソフトウェアは、火星の百年遅れだから」 「でも、ハードウェア面では金星の方が進んでるじゃないか」 「まあ、それは確かに」 軽い冗談を交わしながらも、私はあの“影たち”を見つめ続けた。 ――火星を離れてきたことを、ふと寂しく感じる。 だがその感情を自覚した途端、私は意識的に視線を逸らした。 「それでね」 靂の声が続く。 「あの影たちは、百年以上前に本校を通っていた生徒たちなの」 「だから“リアルタイムじゃない”って言ったんだね」 「そう。たとえば……」 靂は少しだけ間を置いてから言葉を選んだ。 「遠い星の光が、何光年もかけて地球に届くように。あの影たちは、百年前の“光”なんだよ。もう存在しない本校の生徒たちの残像が、時間を超えて今、ここに投影されてるの」 その言葉の余韻が消えるより早く、突如として校内スピーカーから音が鳴り響いた。 チャイム――いや、サイレンに近い不吉な音。 「もう授業が始まっちゃう」 靂が言う。 「え、もう深夜なのか?」 私は思わず空を見上げた。 いつの間にか空は、濃い紫に染まりきっていた。 真夜中。 無数の赤い星屑が、まるで興奮した人間の血管を走る赤血球のように、光の脈動を放っている。 やがて、その紫がゆっくりと赤に変わり始めた。 それでも、不思議と暗い。 赤いのに、黒くないのに、確かに暗い。 ――暗いというのは、黒のことではないのだ。 私はこの村立深夜高等学校の校庭で、それを初めて学んだ。 「ちゃんと夜だな……」 思わず、独り言のように呟く。 その瞬間、ぽつり―― 何かが鼻先を叩いた。 見上げると、空から雨が降っていた。 赤い、血のような雨だった。