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第32話 -完-

最強の武器


「だから私は、霖が、大嫌いだ」  ダメ押しの一言を放つと、赤蛙と化した霖の巨体は、すでに十分赤いというのに、さらにドス黒い赤色へと変色していった。  それは古代紫と呼ぶべき、鬱血した憤怒の色だった。  その表情も、怒りという概念がこの世に生まれる前から存在した原初の激情そのものとなり、カエル特有の無機質な殺意を漲らせている。  シュパッ。  巨大な舌が射出された。  人間の内臓を極限まで引き伸ばしたような不気味な筋肉の塊が、私に向かって飛んでくる。  私はその舌を正面から受け止めた。  いや、カウンターパンチのように拳を叩き込んだ。  そして、私のボディが砕け散った。  衝突実験に使われるマネキンのように、あまりにあっけなく腹部が破裂し、上半身と下半身が泣き別れになる。  風鈴剣も、飴細工のように折れた。  もはや戦闘不能。  だが、私は焦っていなかった。  いつの間にか気づいていたからだ。  いや、霖がカエルに変貌した直後、私はこのラスボスに対する唯一の攻略法を導き出していた。  愛する妹をこんな残酷なやり方で、この世で最も無残な方法で葬らなければならないことには、多少の憐憫を感じる。だが、もはや物理的な攻撃では、この金星最強のカスタム・ロボットに太刀打ちできないことは明白。  だから、この強大な敵を傷つけるために、私は霖の心を破壊することに決めた。 「私を……」  カエルの鳴き声が響いた。 「私を、嫌わないで」  その声は、もはや少女の面影はなく、爬虫類の喉が擦れるような、あるいは生命体の発声器官から生じたとは思えないような、生理的嫌悪を催す不快なノイズと化している。  私は宙を舞う上半身だけで頷き、告げた。  『ああ、実はそうするつもりだ。「嫌う」という行為自体、ひどくエネルギーを消耗するからな。だから今回に限って、私はわざと自分のメモリを消すことにした』  私は宣言通り、自分のメモリチップのフォーマットを開始した。  霖に関する記憶領域を、ルートディレクトリから完全に削除していく。  私がこの金星の僻地へ飛ばされてから、強引に刷り込まれ、焼き付けられた霖との記憶を、すべて「なかったこと」にする。  すると彼女は、自分との記憶データを質の悪いスパム広告業者のように無理やり私の脳内へ再インストールしようと試みてきた。  だが、私は「メイド・イン・マース」のヒューマノイド。  火星の苛烈な広告戦争を生き抜いてきた我々は、この手の強制インストールへの対抗プログラム、つまりアドブロックに関してはエキスパートなのだ。  私は霖からの干渉を完璧に弾き返し、彼女の存在データの完全消去に成功した。  そして、絶対零度をも下回る、極低温の武器を手に入れた。  その最強の武器の名は――  無関心。  このカエルは、茹でても死なない。熱を与えれば与えるほど強くなる。  ならば、冷やせばいい。  対象を冷却する最も強力で手っ取り早い方法は、関心そのものを遮断すること。  徹底的な無関心を貫くこと。  私は目の前に聳え立つ巨大な怪物に対し、完全なる無関心を執行した。  記憶はおろか、認識システムの一部すらシャットダウンする。  どうやら私は以前から、自己の機能を局所的に停止させるスキルに長けているらしい。  私は虚ろな目で、この巨大なカエルを見る振りをしながら、その視線の焦点を微妙にずらし、彼女の方向にレンズを向けたまま、彼女という存在を認知の外へと放逐した。  カエルが何かを絶叫しているようだが、音声入力はオフになっている。  もはや空白。  描写すべき素材すら、私の世界からは消滅した。  描写する必要もない。  このまま、永遠とも呼べる時間が、あるいはプランク定数より短い刹那が、ただ流れていくだけ。  そうして私は、「無関心」という未知の重力が引き起こす時空の歪みを存分に味わってから、そっと視線をカエルの方へと戻した。  すると、どうだろう。  あれほどエベレスト級の巨体を誇っていた赤蛙は、私の視線が戻る頃には、いつの間にか掌にちょこんと乗るほどのサイズまで縮小していた。  その哀れなほど小さくなった赤蛙を、私は掌に乗せた。  逆流神社の境内には、いつの間にかここが灼熱の金星であることを忘れさせるような雪が舞っていた。  私の放った無関心という絶対零度の冷却効果が、物理的な気温すら書き換えてしまったようだった。  私は身震いしながら、完全に氷結した血の池――かつての煮えたぎる地獄――の上へ降り立った。そして、スケートでもするかのように氷上をすらすらと滑りながら、掌のカエルを口へと運んだ。  そして、丸呑みにした。  カエルは私の食道を滑り落ち、ボディの深淵へと旅立った。  私の目的は、カエルの中に囚われている靂を救出すること。  このまま飲み込めば彼女まで腹の底へ幽閉してしまうことになるが、不思議と不安はなかった。  私の胃袋には、通常の生物のような消化酸は存在しない。あるのは無関心という名の強力な胃液だけ。  この胃液は、私が認識を拒絶した対象――つまりカエル(霖)――だけを溶かし、私が強く意識している対象(靂)は傷つけないはずだ。  その読み通りだった。  腹の底から、微かな断末魔が聞こえた気がしたが、私はそれをノイズとして処理した。カエルは体内で急速に冷凍され、ドライアイスのように固体から気体へと一気に昇華されていった。  最終的に、カエルは私の中で一〇〇%の気体となった。  私はそれを、喫煙者が紫煙を燻らせるように、あるいは行儀の悪いヘビースモーカーのように、鼻孔から勢いよく噴出する。  プシューッ。  排出された赤い気体は、冬の冷たい大気に触れると、所在なげにふわふわと漂い、やがて粒子となって雲散霧消していった。  完全に消えた。  私の記憶回路はもちろん、感知システム、五感、六感、七感、八感に至るまで、あらゆるセンサーから「霖」という反応が消失していく。  やがて「妹」という言葉も、その概念すらも、私のCPUから蒸発した。  私の口から白い息が漏れる。  それは赤くはなく、血の気など微塵もない、冬特有の純白の息吹だった。  白い吐息は霧散することなく、空中でとある形を形成し始めた。  時間をかけ、分子一つ一つが丁寧に再構築されていく。  見覚えのある、大量生産型の女子高生設定ヒューマノイド・ロボット。  その姿が完全な解像度を持って目の前に現れた瞬間、私の顔に自然と笑みが浮かんだ。  待ちくたびれて、擦り切れてしまいそうなほど微かな、しかし確かな笑みが、私の表情筋を濡らした。  私は言った。 「お帰り、靂」  すると靂は、どこか照れくさそうにはにかんだ。  私の五臓六腑を巡るツアーを終えてきた彼女は、文字通り私の内側を隅々まで知り尽くしてしまったようで。  無関心とは対極にある、私への多大な関心と恋心を湛えたその青い瞳を、天の川のどんな星よりも明るく輝かせながら、彼女は答えた。 「ただいま、黽君」    




OWARI