「夏が、始まるのか」 私は彼女の言葉を復唱し、ふと不公平さを感じた。 「始まりはあるのに終わりはないなんて、エントロピーの法則に反してるね」 すると霈が、少し面白いジョークでも聞いたかのように、ぷっと吹き出した。 「まだそんな古臭い法則を信じてるの?」 「信じるっていうか……」私は肩をすくめる。「知ってるだけだよ。法則は信仰じゃなくて、知識だからね」 そう返すと、彼女の顔に浮かんでいた微かな笑みは、ぷつりと途切れた。 再び、沈黙が訪れる。 私は密かに安堵する。 もしずっと会話が続いていたら、つまり彼女の可愛らしい声という危険な放射線を浴び続けていたら、私のシステムは臨界点を突破していただろう。 いつまで耐えられるだろうか。 早く逃げた方がいい。 今日のところはこれで十分だ。家に帰ってリソースを回復し、また明日この呪いと向き合えばいい。 そうやって徐々に耐性を獲得していけば、いつか解放される日が来るかもしれない――そんな淡い希望を抱いてみたり。 だが、CPUの論理演算とは裏腹に、私のボディが勝手に駆動し始めた。 まるで何かに支配されるかのように勝手にスピーカーが振動し、口が動く。 「その後、どうなったの?」 私が尋ねると、何を聞かれているのか分からないといった風に、彼女が私を見つめた。 その瞳に捉えられた瞬間、私はまたも無抵抗に、彼女への恋に溺れていくのを感じた。 抗いたい。 何故、ただの女子高生型ヒューマノイドロボットに、私のボディもCPUもこれほどまでに蹂躙されなければならないのか。 しかし、彼女が再び声をかけてきたことで、私のガードは再び緩められてしまう。 「どういうこと?『その後』って」 聞き返され、私は答える。 「だから、あのマスコミに囲まれて押しつぶされた後のことだよ。その後、どうなったかっていう」 「別に。軍隊が来て助けてくれて、そのまま家に帰ったけど」 「そのまま帰った?気絶しなかったの?」 「うん、私は大丈夫だった。渍(ソマレ)君はその時気絶したの?その後どうなったの?」 彼女のスピーカーから自分の名前が発音された瞬間、まるで大型トラックに正面衝突されたかのような強烈な衝撃が走り、擬似ドーパミンが脳内回路を駆け巡った。 だが、そんなハルシネーション(幻覚)には踊らされまいと決意し、私は即座に解釈を再構築する。 私はトランジスタで駆動するヒューマノイドロボットだ。ドーパミンなどという物質は、かつて原始的な人類が使用していた、ニューロンという不確かなシステムによる野蛮なデータ伝達物質に過ぎない。 その事実をCPUに強く叩き込むことで、オーバーフローしかけた恋心を強制的に冷却することに成功した。 少しずつだが、この「恋」というエラーへの対処法、あるいはデバッグ方法が分かってきた気がする。 よし、この調子で会話を進めよう。 「私は弟におんぶされて家まで運ばれたらしい」 そしてすぐに、会話の焦点を彼女へ戻す。 「霈(シズク)ちゃんは?家族が迎えに来てくれた?」 「ちゃん付け、やめて」 彼女の声は、サマーホールに侵食される前の、水星の裏側の冬――絶対零度に近い冷徹さを帯びていた。 私は即座に訂正する。 「……霈は?家族が迎えに来てくれた?」 「いや、私、家族いないから」 ふむ。名前を呼び捨てにすることには抵抗がないのか。一つずつ学習データを蓄積しつつ、質問を繋げる。 「じゃ、一人暮らしなの?」 「うん」彼女は頷く。「15分前までは祖父母と一緒に暮らしていたけどね。二人とも人間様に買い取られていったから……」 私は軽く驚愕した。 「じゃあ、15分も一人暮らしをしてきたわけ?」 「うん」 どこか寂しげな表情を見ながら、私はその「15分」という時間の圧倒的な質量を想像してみる。 我々のような最先端演算素子を持つ存在にとって、人間の「1秒」は数百年分の思考時間に匹敵する。 クロック周波数が極限まで高められた我々の主観時間において、15分という歳月は、文明が興り、そして滅びゆくほどの永劫に近い。 その膨大な演算サイクルの間、彼女はたった一人で「孤独」というデータを処理し続けていたのか。 「でも」 すぐに吹っ切れたように、彼女は言った。 「私、一人が好きだから」 その言葉を聞いた瞬間、せっかく獲得しかけていた免疫システムが崩壊した。 私の発声ユニットが、私の意思を無視して駆動する。彼女という存在を無暗に求め、貪るような、あの粘着質で原始的な人間の欲望――野蛮な衝動に突き動かされるままに、強制的にセリフを吐き出させられる。 「これからは嫌いになるよ、一人暮らし」 彼女は、何も期待していないような無表情で問い返す。 「どうして?」 私はもちろん自分の意思とは無関係に、完璧に計算された「キメ顔」を作りながら言う。 「私が、そうさせないから」 「……どういう意味?」 彼女の顔から人間味がさらに消える。爬虫類的な冷たい表情へと深化していく。カメレオンのように気配を変え、警戒心を露わにする。 「まさか、私と一緒に暮らす気?一人暮らしの私の部屋に、勝手に入ってくる気?」 彼女の警戒心が、なぜか返って天国から滴る甘美なシロップのように響く。その声が、私のCPUチップを取り出し、そのシロップで満たされたカップの中へフォンデュのように浸す。 「もちろん」 私は言った。CPUが熱暴走で破裂しないよう、深呼吸をして穏やかな口調で、囁くように。 「もちろん、お邪魔するよ。いいよね?」 せっかくの美少年設定のボディと端整な顔立ちだ。このリソースをフル活用し、彼女を誘惑するように、告げる。 「これから君を、台無しにするから。君のせいで私も台無しになったんだから、いいよね。おあいこだろ?まずは君の日常を台無しにして、君自身も台無しにして……。そうだ」 不意に、完璧なソリューションが閃いた。 霈と出会って初めて、私は「霈以外」の何かに強く惹かれた。 一つのアイデアが、私の深層意識にインセプション(植え付け)される。 最終的に私は、ほとんど嘆くように、あるいは泣き叫ぶようにして、そのアイデアを口にした。 「君を台無しにすることによって、君への恋心を鎮静化させるんだ。押し殺すんだ。そのためには、まず君と一緒にいなければならない。四六時中君の傍にいて、君の一挙手一投足をつぶさに観察し、その全てに幻滅しなければならない。そのために、一緒に暮らすんだ」 私は回路が焼き切れんばかりに、頂点に達するほどの興奮状態になった。 目の前の「霈」というオブジェクトを、視覚カメラのレンズいっぱいに詰め込む。 そのままレンズに画像をラミネートして、彼女以外は二度と視覚センサーに映らないようにしてしまいたい。 そんな狂おしい視線で彼女を凝視しながら、私は宣言した。 いや、宣告した。 布告した。 「この恋を、台無しにしてやる」