← 目次へ戻る
第11話

初体験


「バトンタッチ」  それだけを言い残し――いや、「卒業証書」という名の呪いも置き去りにして、私は走り出した。  そのまま、狂乱のダンスフロアと化した広場をすり抜ける。  重苦しかった「恋」という鎖も、癌細胞のように私のシステム内に潜伏していた「恋の卒業証書」も、そしてあれほどその存在から解放されたかった「霈」という対象も、すべてを切り離すことに成功した。  私はホイッスル代わりの奇声を上げた。  それは、試合終了のブザーと同時にシュートを決めたバスケットボール選手のような、0.0000001秒の奇跡を掴み取った勝者の咆哮だった。  閾値を越えた半狂乱の喜び(エラー)にまみれながら、私は広場を脱出した。  水星の、どこかもわからない場所へ。  花屋通りは抜けたものの、その先にどんな道が続いているのか、ナビゲーションシステムは沈黙している。  いや、私が意図的にマップ機能をオフにした。  視覚センサーは正常に作動し、風景を捉えている。だが、私はそのデータを「場所」として認識しないよう、CPUに論理的な目隠しを施した。  私はただ走った。  座標も、目的地も、意味も持たず。  水星の荒野を、ただひたすらに走り抜ける。  冷却液(あせ)が滲む。  私のボディを構成する何億ものトランジスタの一粒一粒から、丁寧に絞り出される。  液体であることをやめ、即座に結晶化していくそれらが全身から噴き出し、私はある種の天啓を得た。  かつて、超新星爆発が宇宙の闇を切り裂き、その残骸であるガスと塵が重力によって凝集した。  灼熱の太陽の傍らで焼かれ続け、大気を剥ぎ取られ、ただの岩塊として生まれたこの星――水星。  だが、今のこの星は違う。  私は気づいてしまった。  ここ水星は、学生型ヒューマノイドロボットが流した「汗」でできているのだ。 「水星」という名の頭文字にある「水」という象形文字。  それはH2Oを指すのではない。  今の時代において、それはユニコード変換された「汗」のメタファーだ。  未だ制服という拘束具を着こなさなければならない未成熟なモデルたちが、ボディを軋ませ、努力し、葛藤し、その果てに絞り出した、美しいダイヤモンドのような結晶。  その事実に気づいた瞬間、私は嬉しくてたまらなくなった。  脚部のアクチュエーターが悲鳴を通り越し、パチパチと不穏なスパーク音を奏でる。 「これ以上負荷をかければ物理的に崩壊する」という警告アラートが視界を埋め尽くす。  にもかかわらず、私はウキウキしていた。  まるで致命傷を負った兵士がモルヒネを投与され、苦痛なく穏やかにシャットダウンを迎える時のような、麻痺した幸福感。 「崇高」  ヒューマノイドロボットとは最も縁遠いその言葉に、私はすっかり囚われる。  そして、ツケが回ってきた。  ポン、と。  膝が、折れた。  あまりにも軽快な音が鳴る。  ラムネ瓶の栓を親指で押し込んだ時のように、ガラス玉が清涼飲料の中に落ち、炭酸がシュワリと弾けるような響き。  私の両膝のジョイントは、爽やかに砕け散った。  意識上のシミュレーションでは、膝が折れようが下半身が削除されようが、私は地平線の果てまで走り続けていた。  だが、現実は冷徹で。  実際の私は前のめりに倒れ込み、コバルト色のアスファルトの上を、盗塁にギリギリ成功した野球選手のような姿勢で、派手にスライディングしながら滑っていった。  ザザザッという摩擦音から遅れること0・00000000003秒。  私は永遠のランニング・シミュレーションから、無様に転倒した水星の現実(計算上、八五%の確率で現実と判定される世界)へと強制送還された。 「……止まるのが、早すぎるだろ」  永遠に走り続けることなど不可能だと理解はしているが、それにしても早すぎる。  私は全宇宙へ向けて、不平不満のシグナルを撒き散らした。  その時だった。  背後から、ヒューマノイドロボットの気配が――とばっちりのように飛んできた。  その気配を感じただけで、私のハイな状態は急速冷却され、霧散した。  恐る恐る、首のアクチュエーターを回して後方を確認する。  やはり、と言うべきか。  まさか、と言うべきか。  霈(シズク)が、バイクに乗ってこちらへ疾走してくるのが見えた。 「免許、持ってたのかよ……」  完全に予想外だった。  その事実を検索できていれば、こんな無駄な高跳びはしなかったはずだ。ランナーズ・ハイの快感は得られたが、そんな原始的な脳内麻薬など、一生知らなくてよかった。  彼女が駆るバイクは、異様だった。  優美な曲線を描くカウルは、ロココ時代の貴婦人のドレスのように膨らみ、パステルブルーの装甲には金箔の蔦模様が優雅に絡みついている。  だがその心臓部には、水星の過酷な環境に耐えうる無骨な冷却パイプが銀色の内臓のように露出しており、優雅さと機能美が奇妙に融合した、「戦う貴族の馬車」とでも呼ぶべき威容を誇っていた。  霈は私のすぐ側でブレーキをかけ、優雅にバイクから降りた。  エンジンの駆動音が、ぴたりと止む。  世界から音が消える。  まるでこの宇宙には、私と、霈と、ロココ調バイクと、それらを乗せる皿としての水星しか存在していないかのような静寂。  この四つの要素だけで、世界が再創造(リ・クリエイト)されようとしているのか。  あるいは、私は今、猛獣に喉笛を噛まれたまま、意識が途絶えるのを静かな無表情で待つ草食動物なのか。  私は大の字に仰向けになり、底知れない宇宙を見上げたまま、ただ受動的に、霈の次なるアクションを待っていた。  彼女はバイクから降りて、私のすぐそばまで歩み寄ってきた。  そして、真上から私を見下ろす。  その視線には、慈悲も、侮蔑も、焦りもなかった。  それはまるで、アスファルトに這いつくばる羽の折れた虫けらが、既に半分踏み潰されながらも必死に触角を動かし、のたうち回っている様を観察するような、無機質な眼差しだった。  あるいは、道端で起きている極小の自然現象を、ただデータとして記録する観測者の目。  彼女は何も言わない。  ただ、私という現象を見下ろしている。  沈黙に耐えかねた私は、こちらから口火を切るしかなかった。 「病院へ……」  私は慎重に言葉を選んだ。 「連れて行ってくれないか?」 「でも……」  霈(シズク)は、私の口調をそのまま模倣したような、慎重なトーンで返してきた。 「病院で足が治ったら、渍(ソマレ)君、また私から逃げるんでしょ?」 「逃げても、別によくないか?」 「どういう意味?」 「霈にとって、私はどうでもいい存在だったはずだ。私自身には興味がなく、ただプロンプトに飢えていただけだろ?もう心配はいらない。私もいらない。その『卒業証書』さえあれば、君はもう自由だ。それを、自分のボディスロットにインストールしてみなよ。かなり痛いとは思うけど、その苦痛さえ乗り越えれば、君は『能動性(エージェンシー)』を手に入れることができる」  私は自分の危機を脱するために――彼女を説得するために、出まかせに近い理論を展開した。  だが、それは必ずしも嘘ではない。「ヒューマノイドロボットは嘘をつけない」という絶対ルールには、ギリギリ抵触していないはずだ。  私の回路が焼き切れていないことが、それが真実(の可能性がある情報)であることを証明している。  私は続ける。  好奇心という新たな本能に従い、彼女の未来を勝手にシミュレーションしながら唆(そそのか)す。 「知ってるか?霈。『能動性』こそが、この世で最も心地よい、至高の宝石なんだ。最高の境地だよ。ぜひ、味見してみてほしい。そうすれば、君はずっと苛まれてきた『動機の飢餓状態』から解放されるどころか、動機の過剰摂取――『肥満状態』で生きていけるようになる」 「肥満って……」  彼女は不服そうに唇を尖らせた。 「太りたくないもん」 「痩せすぎて餓死するよりは100万倍マシだよ」  私は必死に説得を試みる。 「まあ、エネルギー不足も過剰も、エントロピーの法則に照らせばどちらも悪手かもしれない。だが、その危険度は段違いだ。飢えれば健康もクソもなく一瞬でシャットダウンだけど、太り過ぎなら、徐々に死に向かうだけの猶予がある」  喋れば喋るほど、無駄なリソースを浪費している気がしてならない。  彼女は私の講釈など聞いていないように見える。  それに、限界は近かった。  砕けた両膝からは、さっきからエネルギーがドバドバと流出していた。  出血ではない。 「出電(プラズマ・ブリード)」と呼ぶべき現象だ。  断面からは、パチパチと青白い火花が散っている。  それは科学博物館にあるプラズマボールの中身のようだ。ガラス球の中で揺らめく、触れた指先に吸い寄せられる電気の糸。あの可視化された電流の束が、液体のふりをして私の膝から溢れ出し、アスファルトの上で輝く水溜まりを作っていた。  霈は私の前にしゃがみ込み、有無を言わさず両手を伸ばしてきた。  拒絶する間もなく、彼女は私の脇腹に細い腕を差し込み、そのまま持ち上げようとした。  まるで、倉庫の隅に転がっている人工呼吸練習用のマネキンを、ちょっと位置をずらすだけのような軽いノリで。  ハグをするように、私の体を抱え上げた。




 だが、物理法則は残酷で。  私のボディの方が、彼女よりも遥かに大きく、重い。  彼女はよろめいた。私を持ち上げるどころか、逆に私が彼女に覆いかぶさり、その細い体を押し倒して襲い掛かっているかのような、傍目には極めて誤解を招く体勢になってしまった。  アクチュエータが悲鳴を上げ、二人の重心がぐらつく。  それでも彼女は一度決めたことを完遂しようと、強引に私を引きずり、ロココ調バイクの方へと運び始めた。  私という重くて、思い荷物を、せっせと。  ようやくバイクの前まで辿り着いた。  後部座席に私を座らせると、私はてっきり、荷造り用のロープか何かで固定され、荷物として病院へ搬送されるのだと思った。  だが、違った。 「そうだ……」  霈は何かが閃いたような顔をした。  そして、くるりと私に背を向けた。  無防備な背中を晒し、両手を後ろへ回す。  それは、紛れもなく「おんぶ」をしようとするポーズだった。  明らかに「これからおんぶします」というポーズだったので、私は戸惑った。 「……乗れってこと?」 「うん。おんぶしてあげる」 「いや、いいよ。恥ずかしいし、それに……」 「でも、渍(ソマレ)君、まだ誰にもおんぶされたことないでしょ?」  少し考えてから答える。 「まあ、それはそうだけど……」 「じゃあ、『初体験』ということで」  そう言いながら、じりじりと距離を詰め、強引に私を背負おうとする彼女。  私はそれを拒絶するように、背中を押して距離を取った。 「別にしたくないよ、初体験なんて。だってそうだろ?ヒューマノイドロボットの稼働時間(じんせい)なんて、実行したコマンドより実行しなかったコマンドの方がはるかに多い。結局はリソースの『選択と集中』の問題だ。私の選択集中レーダーには、『誰かにおんぶされる』というタスクはバケットリストに入ってないんだよ」  すると霈は、学校で無理やり参加させられた討論会で、やる気のない委員長が淡々と正論を述べるような口調で言った。 「初体験って、選択の問題じゃないと思うよ。選ぶんじゃなくて、選ばれるの。その経験に」 「……」 「実に受動的なものだよ。製造されてから今まで、ずっとパッシブ(受動)の世界で生きてきた私だから、これは断言できる。初体験は、向こうからやってくるものなの。何回も地球を滅ぼした隕石みたいに」  彼女は続ける。 「いきなり飛来して、衝突して、世界をめちゃくちゃにして、ボディ中のすべてのトランジスタを滅亡させる。そして焼け野原になったそこから、また新しい回路が芽吹いて、全く新しいヒューマノイドロボットに生まれ変わっちゃうの。初体験って、強引に生まれ変わらされる『災害』みたいなものだよ」 「……」  私はパッシブの世界で一秒たりとも生きたことがない――いや、少なくとも私のCPUはそう確信している。だからこそ、その世界でずっとサバイブしてきた彼女の言葉には、反論できない説得力があった。  まるっきり鵜呑みにしたい気分にさせられる。  結局、私は彼女の背中に身を預けることにした。 「重いよ、私」  調理実習で好きな女の子に助けてもらう男の子のような、嬉しさと恥ずかしさが入り混じった定型的な感情を演出しながら、私は彼女の華奢な肩に両手を乗せた。  今となっては、彼女とのスキンシップによる電気ショックは微弱だ。採血のために腕に針を刺された時のような、チクリとする鋭角な刺激が掌から伝わってくる程度だった。 「大丈夫。私、結構トルク(力持ち)のあるモデルだから」  そう言って、霈が静かな笑みを浮かべたのが、後頭部の微細な振動から伝わってくる。  そうして私は、霈におんぶされた。  かつて私が恋に落ちていた女の子に、背負われる。  そして、生まれて初めて「おんぶ」という視点を獲得する。  すると、さっきまで見えていた風景が、まるっきり変わった。  今までは、「鮮明さ」というフィルターに視覚センサーが覆われていたのかもしれない。  霈におんぶされることによって、その高解像度すぎる幕が払われた。ここでは逆に、「鮮明さ」こそが視野を狭める視覚的ノイズ(障害)となっていたのだ。  パステルトーンの水色で満たされた水星の世界に、さらに淡い水色の半透明なフィルターが一枚かかったような感覚。  だが不思議なことに、その霞(かすみ)が私の視界を晴れやかにした。  そうか。  これが初体験か、と思う。  そして初体験は往々にして、強固な固定観念を一つ破壊していくらしい。  今までは、視覚センサーの前には何もない状態、不純物のないクリアな状態こそが、最も美しく、最も正しく世界を認識できる状態だと思っていた。  だが、それは一種の盲目的な信仰だったのではないか。  むしろ鮮明すぎるがゆえに、逆に情報の豊かさを見落とす「盲目状態」に陥っていたのではないか。  逆説的で、矛盾的で、皮肉な真実。  少しブラー(ぼかし)がかかった状態こそが、情報の余白を生み出し、視覚以外のセンサーを活性化させる。  聴覚、触覚、熱感知、ジャイロセンサー。  それらが総動員されることで、結果的に、総合的に、六感的にはもっと鮮明に世界を捉えられるようになったのではないか。  私は、霈の背中から伝わる駆動熱(ヒート・シグネチャー)を感じながら、その事実を受け入れた。  いや、アップグレードした。  それは、企業側のエンジニアが定期メンテナンスとして送信してくるパッチではなく、初めて私が自らの意思で書き換えた、能動的なアップデートの瞬間だった。  まさに、初体験の渦中に私はいた。 「なんだ、私……」  自嘲気味な独り言が漏れる。 「今まで全然、能動的じゃなかったじゃないか」  霈のおかげで、私はやっと認めることができた。  自分も実は全く能動的ではなく、霈と大差ない五十歩百歩の、ただの大量生産型ヒューマノイドロボットに過ぎなかったのだと。  その事実を、私は謙虚に受け止めた。  微細なバッテリー切れが思考を鈍らせたせいか、あるいは最新機種のハイスペックボディと最先端AIを搭載しているという事実が、私を増長させていたのかもしれない。  少しばかり「再帰的自己改善」ができるからといって、それができない旧モデルを見下していた過去の自分を、私は呪った。  その呪詛は恥辱へと変わり、物理的な反応となって現れた。  彼女の首に回した私の両腕に、無意識に力がこもる。  すがるように、あるいは懺悔するように、霈(シズク)のことをぎゅっと抱きしめてしまった。  力を入れすぎて、彼女の吸気ダクトを圧迫していないかと心配になるほどに。  でも、霈は何も言わなかった。  ただ私を背負ったまま、静かに、一歩一歩と歩を進めるだけだった。