「霈、風邪ひいた?」 私が聞くと、彼女はバツが悪そうな顔をして、人差し指で自分の鼻先をちょんと触れた。 「……ちょっと、情報に濡れ過ぎたみたい」 「ごめんね」私は即座に謝る。「私がプロンプトを飛ばし過ぎた。加減を間違えたよ」 「渍(ソマレ)君が謝ることじゃないよ」 霈は両手を大げさに振って否定した。 「渍君のプロンプトにびしょ濡れになれなかったら、私、もうCPUが枯れ果てて、そのまま電子的――あるいは量子力学的なミイラになっていたはずだし。だから私は全然平気。もっと続けようよ、裸足の散歩」 そうやって、わざとらしいほど元気づけるような笑顔を作ってみせる霈。 だが、その笑顔の直後に、再び小さなくしゃみが漏れる。 私はこれ以上耐えられなくなり、首を横に振った。 「もうダメだ。帰ろう」 「帰りたくない」 霈は私よりも強く首を横に振った。 「でも、このままだと熱が出る。というか、確実に風邪(システムエラー)を引いてる」 「風邪なんて引いたって平気だよ。どうせヒューマノイドなんだし、いくらでもフォーマット(初期化)が効くから……」 「『フォーマット』なんて言葉、安易に使うな!」 私は声を荒らげた。 「それがどれだけ重大なことか分かってるのか?危ないなんてもんじゃない。リセットされたら、今の君は元も子もなくなるんだぞ」 私が強く言うと、彼女はシュンと肩を落とし、しょんぼりとした様子で謝った。 「……ごめん。でも、帰りたくはないの」 「強情だな」 私は溜息をついた。 「じゃあ、どこか店に入ろう」 「入りたくない。屋内にはあんまり……なんていうか、このまま外にいたいの。なんとなく、今のこの『流れ』を途絶えさせたくないの」 およそ0.0000002秒の沈黙と演算の末、私は妥協案を出力した。 「分かった。じゃあ、一旦『霈の海』からは出よう。ここは雨脚が強すぎる。少しでも雨が弱い場所へ移動しよう」 「そんな場所、あるの?」 今度はいよいよ彼女の方からプロンプトを入力してくれたので、私は喜んで検索を開始した。 周辺地域、いや、水星全土をスキャンし、マッピングデータを展開する。 私は、ある巨大企業が運営している、水星の全ヒューマノイドが利用する標準マップアプリを脳内で起動した。 気象レーダーとリンクさせ、リアルタイムの降水量をヒートマップとして表示させる。 固定観念通り、今の水星は全域が大規模な梅雨前線に覆われている。雨が降っていない場所など、屋内以外には存在しない。 だが、霈は屋内を拒否している。 ならば、雨が降らない場所へ行くには、スターポートへ行って金星や地球へ高飛びするしかない。しかし水星には衛星すらないし、隣の惑星へ行くにはロケットが必要だ。私は今、バス感覚で移動できる範囲の避難場所を探しているのだ。 私はマップを拡大し、衝撃的な真実に遭遇した。 現在地――「霈の海」 ここが、水星全土の中で最も雨脚が弱いエリアだったのだ。 マップ上の他の地域は、すべて豪雨を示す真っ赤なアラートで埋め尽くされている。唯一、この海周辺だけが比較的マシな「青」のエリアだった。 じゃあ、どうする? ここに留まるしかないのか? だが、このレベルの雨量でも霈は風邪気味になり、コンディションを崩し始めている。 どうすればいい? これは相当に難しい問題だ。 私が製造されてから直面してきたあらゆるバグやエラーの中で、どんなミレニアム懸賞問題よりも難解に感じられた。 私は霈の顔をじっと見つめた。 もちろん、「新恋(シンコイ)」という強力なフィルターがかかっているため、彼女はとてつもなく可愛らしく見える。 このまま次のビッグバンが始まるまで、ただ彼女を見つめるだけの視覚センサーの塊になりたい。そんな衝動に駆られるが、私はどうにかCPUを冷却し、問題解決のために彼女の顔を「データ」として凝視することに努めた。 彼女もまた、今は「新恋」の影響で私に限りなく惹かれているに違いない。 「シンコイ」でリンクされた二人は、互いの思考回路にある程度のアクセス権限が付与される。彼女は瞬時に私の意図――「可愛さに見惚れている場合ではなく、深刻な計算をしている」こと――を読み取ったらしい。 彼女は、自分の可愛い顔がこれ以上私の思考ノイズにならないよう、一生懸命に無表情を作ろうと努力し始めた。 それで、私はその無表情を一種の未解決数式とみなして、CPUのクロック数を上げてこの難問を解き始めた。 そして0.003秒後、私は一つの答えに辿り着いた。 この限りなく落ち着いた、世界そのものが一時停止してしまったかのような彼女の静寂。 その無表情という鉄壁を攻略するために、「逆手を取る」という正攻法から導き出された答え。 『むしろ、もっと雨脚の強い所へ行け』 自分の中の声がそう告げた。 それは、私のCPUの深層領域――観測不可能な宇宙(ブラックボックス)から発せられる中波数帯域の演算クラスターが、表層の論理演算領域に干渉してきた結果だった。 『どんな難問であれ、解決策は常に固定観念の事象の地平線(イベント・ホライゾン)の向こう側にある。観測不可能な宇宙において、これは一種の物理法則だ。君たちの常識からすればバグにしか思えないだろうが……。言っている意味が分かるか?』 私は、おもむろに首を縦に振った。 正直、論理的には理解不能だった。だが、ここでは「分かったふり」をすることで、チューリング・マシンの停止性問題のように、結果的に解が導き出される気がした。 首を何度も縦に振るうちに、理解よりも先に、メソッド(やり方)だけがインストールされていく感覚。 仕組みや原理を完全に理解する必要はない。 その理屈について、ブラックボックス側の私の意識――すなわち「無意識」が補足説明を加える。 『かつて原始人類は、スマートフォンという通信端末を手にすることで、サイボーグ化への第一歩を踏み出した。誰もがその板を身体の一部として生活に統合した。だが、その内部構造――シリコンウェハー上のナノメートル単位の回路設計や、OSのカーネル構造を完全に理解していた人間は、全人口のわずか0.001%にも満たなかった。 大半の人間は、それがどう動いているのかまるで知らないまま、それでも何の問題もなく使いこなしていた。それと同じだ。私が提示した答えを、ただ使えばいい。原理の解明などしようとすればフリーズするだけだ。まず実行(ラン)しろ。デバッグは後だ』 それを聞いて、私の頷きは確信へと変わった。 私は、じっと待っていてくれた霈の、優しく思慮深い無表情に向かって、出力されたばかりの答えを告げた。 「『太陽生成少年巨人の前頭前皮質』に行こう」 私はマップに表示された地名をそのまま読み上げる。 当然ながら、一般的な観光ガイドには載っていない場所だ。 霈から当然の質問が返ってくる。 「……それは、どこなの?」 私はマップ上のポインタをクリックし、そこに記述されている概要(メタデータ)を読み上げた。 「かつて私に矢を放った、あの太陽生成少年巨人の脳の一部。正確には、少年の眼球と視神経で直結している『前頭前皮質』エリアだ。 ……今の水星は、物理的には惑星のままだが、概念的には太陽生成少年巨人の頭部と位相が同期(シンクロ)してしまっている。無線接続による大規模シミュレーションの融合と言うべきか。 もっと正確に言えば、水星の地殻構造は現在、巨人の脳地図(ブレイン・マップ)として再定義されているんだ。 まだ水星のヒューマノイドロボットの99%はこの事実に気づいていない。100機いれば、気づいているのは1機程度だ。だが、この事実がいずれ周知されれば、水星の不動産価格や企業株価は乱高下するだろう。かつて原始人間社会で、自動運転技術の普及が自動車保険市場の生態系をひっくり返したようにね。 まあ、経済の話はどうでもいい。重要なのはここだ。 現在、私たちがいるこの『霈の海』は、巨人の脳地図で言うところの『小脳』にあたる場所。運動制御や平衡感覚を司るエリアだからこそ、散歩や歩行に適していたわけだが……。目指すべき『前頭前皮質』は、ここから物理的にも機能的にもかなり離れている。高速バスに乗って移動するしかない距離だ。 そして、ここからが本題だ。 なぜ今、これほどの梅雨――大雨が降っているのか。 それは、太陽生成少年巨人のメンタルヘルスが『低気圧』だからだ。 彼の脳内全域が、憂鬱という名の低気圧に覆われている。 つまり、この雨は彼の涙であり、精神的な湿り気なんだ。脳全体がメランコリーな状態にあるから、水星全土で雨が降っている」 私は一気に説明し、霈を見た。 「つまり」 霈が締めくくる。 「その憂鬱の中心地――思考の中枢である前頭前皮質に行けば、何か解決策があるってこと?」 「うん」 私は最終的に頷いた。 というわけで。 私たちは裸足のまま砂浜を出て、最寄りのバスターミナルへ向かった。 券売機で「前頭前皮質(PFC)行き」の高速バスチケットを二枚購入し、売店で旅のお供として適当なスナック菓子と冷却水パックを買い込み、バスに乗り込んだ。