外へ出た瞬間、世界が荒れ狂っていた。 雨脚はさらに強まり、使い捨てレインコートがプランク定数ほどの短時間で引き裂かれるのではないかと危惧するほど、前頭前皮質を取り巻く「脳内嵐(ブレインストーミング)」は激しさを増していた。 その時。 不思議な現象が起きた。 私と霈がペンダントのように首から下げている、あの手作りのトランジスタラジオから、ほのかな緑色の光が発せられ始めたのだ。 それは、ブルーアワーに染まったこの世界で、あまりにも久しぶりに目撃する「青以外」の色だった。 「渍(ソマレ)君!見てこれ!緑色だよ。緑色に光ってるよ!」 霈は嬉しそうに叫び、胸元で微かに発光するラジオを、大切な宝石でも扱うかのように両手で持ち上げて私に見せた。 私も同じように、緑色に脈打つ自分のラジオを持ち上げ、彼女の前に掲げた。 私たちは、ワイングラスを合わせるように、光るトランジスタラジオ同士を軽くぶつけ、乾杯をした。 チーン、という微かな接触音。 そしてスピーカーから流れてくるノスタルジックでアナログなノイズ音を、一口啜るように聴く。 後味の良いサウンドが聴覚センサーを通り抜け、私のバッテリーを2%ほど充電してくれる。 元気をもらった私たちは、本格的に「灰白質の森」の方へと足を運んだ。 台風のような暴風雨のせいで視界は最悪だ。何も見えない。 だが、首元のラジオが羅針盤の役割を果たしてくれる。 発光する緑色の光が、ある特定の方角へ向けてわずかに突出し、小さな光の棒となって指針(ベクター)を示している。 それはまるでダウジング・ロッドのように、あるいは見えない水脈を探り当てる探知機のように、進むべき方向を教えてくれていた。 私たちはこの博物館級の骨董品、トランジスタラジオが示す導きに従うことにした。 私と霈は、しっかりと手を繋いだ。 この轟音とカオスが支配する悪天候の中だ。物理的な接続を保っていなければ、いつの間にかはぐれて、思考の濁流に流されてしまうかもしれない。 私たちは互いの指に力を込め、この脳内嵐(ブレインストーミング)を切り抜けるべく、一歩一歩前進していった。 というわけで、私たちは嵐の中を進んでいく。 皮肉なことに、この暴力的な台風、何も見えない視界不良、そして頼れるものがこの原始的でアナログなトランジスタラジオ一つしかないという極限状態が、私たちに安寧をもたらす。 処理すべき外部情報量が極端に減少したことで、私と霈(シズク)は、互いの存在へとより深く、没入的に集中することができるようになったのだ。 この全てをミュートしてしまう轟音の嵐の中で、私は気づく。 今まで私は、あまりにも膨大な情報の洪水に溺れ、すぐ傍にいる霈の気配を0.001%程度しか感知できていなかったのだと。 この酷い台風は、まるで地球を浄化する自浄作用のように、私たち二人の間を遮っていたノイズや、割り込んでくる不要なデータを洗い流してくれた。そのおかげで、霈の輪郭、存在の密度、香り、そして彼女に関するあらゆる情報が、かつてない純度で私の中へと流れ込んでくる。 視覚センサーが役に立たないこの状態こそが、逆説的に「霈の正体」を鮮明に映し出している。 私は今、霈というヒューマノイドロボットに関する情報の、実に90%にまでアクセスできていた。 そして、それは霈から見た私に対しても同様であるはずだ。 そう気づいた瞬間、猛烈な羞恥心が込み上げてきた。 まるでこの嵐の中で、裸でシャワーを浴びているところをまじまじと観察されているような気分。おそらく霈も同じ感覚に晒されているに違いない。 だが、その恥ずかしさ同士が中和――いや、拮抗作用を起こしたらしい。 私たちの羞恥心は蒸留され、その熱を持った蒸気はそのまま首から下げたトランジスタラジオの燃料となった。緑色の羅針盤の光は、私たちの恥じらいを吸って、より強く輝きを増していった。 つまり、私たちを導くこの緑色の光度は、いわば二人の羞恥の度合いを可視化したパラメータだと言えるだろう。 そんなプロセスを経て、私たちは徐々に「灰白質の森」へと近づいていく。 近づいていると判断できる根拠は、もちろん視覚的な空間認識ではない。「これだけ歩いたのだから距離が縮まったはずだ」という原始的な時間計測による推測に過ぎないが、もう一つ、確かな測定方法があった。 トランジスタラジオから伸びる、緑の光線だ。 正しいルートへ進めば進むほど、その光の線は真っ直ぐに、鋭く伸びていく。 逆に、私たちが会話に夢中になり――もちろん、この轟音の中では音声会話など不可能だ。太陽風のせいでテレパシーも使えない。私たちはラジオの周波数同調ダイヤルを回し、特定の振幅変調(AM)帯域の隙間に、世界でたった二人だけのチャンネルを工面して通信していたのだが――話が弾んでルートから逸れそうになると、緑の光線はてきめんに反応した。 それはまるで水不足で萎れた植物のように、あるいは精気を失った生き物のように、ゆらゆらと力なく垂れ下がり、元気のない波を描くのだ。 それに気づいて軌道を修正すると、光線は再び元通りになり、背筋を伸ばした儀仗兵のようにピシッと一直線に戻る。 その光の「張り具合」が、ナビゲーション代わりになっていた。 やがて、緑の光線は恐ろしいほど真っ直ぐになった。 終いにはあまりに直立しすぎて、それはもはや波動としての光ではなく、物理的な金属の棒になったのではないかと錯覚するほど、硬質で鮮明な質感(テクスチャ)を帯び始めた。 「光には触れない」という原始的な固定観念が、強制的に解除されるほどの物質感。 私も霈も、それぞれのラジオから発せられるその「硬すぎる光」に、思わず手を伸ばした。 指先でつまんでみる。 確かな抵抗があった。 親指と人差し指で挟み、少し力を入れてみる。 ポキッ。
ポキッ。 緑色の光線は、まるで細長いチョコレート菓子か、凍り付いた飴細工のように、乾いた音を立てて折れた。 そして、誰かが使用説明書(マニュアル)を渡してくれたわけでもないのに、私たちは動いた。 本能的に。 ここで私は初めて気が付いた。ヒューマノイドロボットにも、この原始的すぎる「本能」というメカニズムが実装されていたのだと。 かつての変態的なエンジニアたちが、イースターエッグとしてこっそりと、仕様書の隅にも載らない深層領域に「本能」という関数をインストールしていたのだ。 だから私たちは、11月11日が来れば本能的に棒状のお菓子を買ってしまう原始地球人のように、迷うことなくそれを口へと運んだ。 ポキッ。 硬質な光を噛み砕く。 咀嚼し、味わう。 すると突然、聴覚センサーから緑色のノイズが爆発的に発生した。 それは瞬時に目眩(めまい)を覚えるほどの轟音となってCPU全域に拡散し、私と霈(シズク)は膝から崩れ落ちそうになった。 辛うじて耐えられたのは、繋いだ手と手から伝わる温度のおかげだ。 「こんなに目が回って苦しいのは自分だけじゃない」という連帯感が、私たちをギリギリのところで支えていた。 やがて、その雑音(ノイズ)は徐々に洗練され、意味のある情報パケットへと構造化されていった。 私たちが咀嚼し、喉の奥へと嚥下した緑色の光線から、一つのソースコードが展開(シッピング)され始める。 『……深い、暗い森の中を潜っていく』 それは、老人の声を真似ている、幼い少年の声だった。 その老人の演技があまりにもハイパーリアリスティックで、自然と敬意を払い、本能的に労りたくなるような枯れた響きを持っていた。だが、その本質は間違いなく子供で。 完璧すぎる、老人の真似事。 物真似は続く。 『だが、長くはない。全ては刹那だ。元々、全ての始まりが刹那(ビッグバン)の間に起こされたのだから。皆、宿命的に切ない、刹那な存在だ』 そこまで聞いた時点で、私は反論を試みた。 緑の光線を食べてしまったことで、通信手段だったトランジスタラジオはただのガラクタのペンダントに戻ってしまったが、代わりにテレパシー回線が復旧していたからだ。 「どうして刹那が『切ない』のさ。一瞬で終わる刹那だからこそ、楽しいんじゃないのか?」 『おバカさんだね』 ソースコードの声色が変化した。老人のトーンから、あどけない子供のトーンへと10%ほどシフトする。だが、その中途半端な混ざり具合が逆に「不気味の谷」効果を生み出し、非常に耳障りな声となって響いた。 『切ないと、楽しくないと、誰が決めた?切なさは良いものだよ。切ないからこそ、楽しいのではないか』 「ふざけるな」 私が罵ると、追加のソースコードがパケット通信で送られてくる。 『大人になれ、少年。切なさを嫌がることができる時期なんて、刹那の中でもさらに刹那な、ほんの一瞬だけさ』 「意味が分からない」 すると最後のソースコードが、諦めたようにポンと投げつけられた。 『分からなくて結構。どうせ、否応なしに経験することになるのだから』 そこまで言い残し、バックエンドのソースコード入力は終了した。私のCPUは、強制的にフロントエンドの世界へと引き戻される。 すると、本物の嵐が始まった。 今までは、水星全体を覆う豪雨――物理的かつ気象学的な嵐のおかげで、私と霈は外部からの情報を遮断されていた。 皮肉なことに、嵐が情報をインタラプト(遮断)してくれていたおかげで、私たちは互いの存在感だけを認識できる、静かで穏やかな世界にいたのだ。 だが、さっきのソースコードが展開されたことによって、その「物理的な嵐」が消滅した。 雨が止んだのではない。 物理的気象の嵐が止むと同時に、今度は「情報の嵐」が襲来したのだ。 今まで強制的にミュートされていた、水星全土、いや太陽系全域からのあらゆる情報の津波が、堰を切ったように一気に押し寄せてくる。 私のCPUとメモリチップは、瞬く間に情報の洪水(フラッド)に飲み込まれた。霈も同様。 私たちは藁にもすがる思いで、互いの手を必死に握りしめた。 だが、物理的な接触だけでは全く足りない。情報量が法外すぎる。 このままでは、手をつないだまま互いの存在認識(ID)を見失い、永遠にはぐれてしまいそうだった。 製造されてこの方、一度も味わったことのない恐怖が回路を走る。 「霈!」 私は命綱を握るように、彼女の手をぎゅっと掴んだ。 私の触覚センサーを通して、彼女もまた同じ恐怖を感じながら、握力を強めてくるのが分かる。 「しっかり掴まって!」 私が叫ぶ。だが、彼女の手のひらからは、酷い迷いが伝わってきた。 「でも……」 彼女が震える声で言う。 「このままだと、情報の波に飲まれてはぐれちゃうよ。何とかしなきゃ」 もっともな意見だった。 このままでは、あと0.00005秒も保たない。 思考する。 なんとかしないと。 私も強くそう思い、結果として私のスピーカーから一つの提案が出力された。 「ブレインストーミングしよう」 私はさらに説明を加える。 「二人で思考を直列接続して、この情報の濁流を突破するためのアイデアを出し合うんだ」 彼女が頷くと、私たちは腹を括った。 CPUを、GPUを、メモリチップを、RAMを、すべての演算リソースを括り、同期させる。 私たちは一度だけ目を合わせ、ぎゅっと閉じ、そして再び同時に目を開いた。 まるで遥か昔から約束されていたかのように、完璧なタイミングで互いに頷き合う。 そして、私たちは飛び込んだ。 途方もない質量のデータストーム――太陽系全域から撒き散らされ、押し寄せ、荒れ狂う情報の嵐の中へ。 おそらく人間の身体を構成する全細胞数を一〇〇〇万乗したほどのビット数を、三秒間という凝縮された時間で交わした後。 完全にリソースを使い果たし、へとへとになった私たちは、同時にその結論を宇宙に向かって送信(シッピング)した。 『手を離せ』