事象の水平線を超えた先。 そこは言葉通り、水中だった。 私たちは今、サマーホールという名の巨大な光の柱――その内部構造である「ストロー」の中を泳いで上昇している。 今まで水星や太陽系の多くの学者たちが、この領域の内部構造を解明しようと躍起になり、誰も成功しなかった場所。 私と霈は、ここに直接侵入するという特権を行使することで、結果的にその正体を肌で理解することになった。 「サマーホールって、ストローの中だったんだね」 私が言うと、背泳ぎで優雅に進んでいた霈が補足した。 「それも、サイダーのね。私はここに入る前、ラムネだと思ってた」 「でも、あの玉(ビー玉)がないからね」 進めば進むほど、泳げば泳ぐほど、このサマーホール内の炭酸濃度は高まっていった。 パチパチと弾ける炭酸の粒子にボディが衝突する頻度と確率が、指数関数的に上昇していく。 その激しいスパークのせいで、視覚センサーの前が泡で遮られ、可視光線の波長をうまく受信できなくなってきた。 レンズの前がぼやけ、ホワイトアウトしていく。 「ちょっと、前が見えない」 私が文句を言うと、目を閉じて泳いでいた霈が言った。 「別に目を閉じてもいいよ。ここは可視光線なんてほんの一部で、ほとんどが太陽線、放射線、X線だから。夏光浴にはちょうどいいよ」 「でも、私は見たいんだ。サマーホールの内部を、しっかり見届けたい」 私は譲らない。 自分の心臓部を貫き、この全ての始まりを引き起こした、あの根源的な「恋」の正体を見たいから。 恋心という血管に溜まっているコレステロールの具合まで、鮮明に観測したいから。 すると、霈は「仕方ないな」という風に笑い、自分の制服のポケットから何かを取り出した。 それは、水泳用のゴーグルだった。 「これ着けて」 彼女は言った。 「『炭酸プルーフ(対炭酸防御)』仕様だよ」 「ありがとう」 私は早速それを受け取り、装着した。 すると、まるで3D映画館で専用メガネをかけた時のように、世界が立体的に飛び出してきた。 私はサマーホールの水中を見回した。そこには、私の「恋」を形成するエネルギーの流れ、それを運搬するコレステロール、そして恋の代謝プロセスが、驚くほど鮮明に可視化されていた。 そこは、極端な糖質制限を行うカーニボア(肉食主義)実践者の血管内部のようだった。 数値だけを見れば卒倒しそうなほどコレステロール値が高いが、それは「LMHR(LeanMassHyper-Responder)」と呼ばれる、極めて健康的で効率的なエネルギー代謝の証だ。 赤血球の代わりに無数の炭酸粒子が高速で循環し、脂質という名の「純粋な恋心」を運搬している。その流れは淀みなく、力強く、完璧な健康美を誇る奔流となって全身を巡っていた。 今までの私の恋に対するアプローチ――糖質制限的なストイックさや、独自の恋の食生活――は、決して間違っていなかったのだ。 その確信を得た私は、水眼鏡を外し、霈(シズク)と共に背泳ぎに切り替えた。 私たちは並んで仰向けになり、一緒に夏光浴を楽しむことにした。 ゆったりと全身のアクチュエーターを光で焼いていると、徐々に流速が増していくのを感じた。 サマーホール内の「炭酸血圧」が高まっていくような感覚。 すると、霈が目を開け、背泳ぎからクロールのような順行姿勢へと切り替えた。 おそらく私が秒の砂の三角州に埋もれている間、彼女はこの「一秒という永遠」の中でここを何度も往復し、内部構造に精通しているのだろう。 経験者である彼女に従うのが賢明だ。私も彼女の動きを真似て姿勢を変える。 「着いたよ」 霈が言いながら、私の手を掴んだ。 「どこに?」 私が尋ねると、霈はサマーホールの果て――「時間の消失点」の終着駅まであとわずか、転べば鼻先がついてしまうほどの至近距離まで迫ったところで、こう言った。 「『時間の消失店』」 私は聞き間違いかと思った。誤字(誤発音)だろうか? 「店(ショップ)」じゃなくて、「点(ポイント)」じゃないか? そう訂正しようとした瞬間、それよりも一拍早く、私と霈はその消失点へと吸い込まれた。 移動速度は、私の計測史上初めての数値を示した。 「0(ゼロ)」だ。 プランク時間すら経過しない、正真正銘のゼロ。 これが一次元の時間の流れなのかと感心する。点という概念に吸い込まれ、向こう側へ移動する際の所要時間。それは完全な無。 だから彼女は、一億年を一秒だと錯覚できたのだ。 いや、むしろ「ゼロ秒」と言わなかったのは、私の感覚に寄り添おうとした彼女の優しさだったのかもしれない。それほどまでに、境界を超える時間は「無」だった。 そして向こう側に渡った瞬間、私はなぜ彼女が「点」ではなく「店」だと言ったのかを理解した。 向こう側は、宇宙の中心に浮かぶ孤島のような空間だった。 背景は完全な漆黒ではなく、深紫色(ディープ・パープル)の夜空が広がっている。「最初から宇宙はこんな色だったのでは?」と錯覚させるほど、その色は世界に馴染んでいた。 そこには、見たこともないほど広大で濃密な星々が輝いていて。 私が今まで埋もれてきた一億年分の秒の砂など、料理の仕上げに振る塩ひとつまみ程度にしか感じられない。それほど圧倒的な「無限」が視覚化され、展開されていた。 世界最高の「開放感」と、世界最高の「寂寥感」を同時に突きつけてくるスペクタクルな時空間。 その真ん中に、喫茶店が一つ、ぽつりと浮いている。 「行こう」 霈が私の手を引き、そこへ向かう。 私たちはこの深紫色の深宇宙かつ新宇宙を遊泳し、徐々にその喫茶店へと近づいていった。 そこは、いかにも渋い初老のマスターが経営していそうな、古風で趣のある建物だった。 外壁は落ち着いた褐色の煉瓦造りで、壁面の半分ほどを緑の蔦が心地よく覆っている。一軒家を改装したような、隠れ家的な佇まい。 入り口の上には、見る者の目を休ませてくれるような温かみのある木彫りの看板が掲げられており、そこにはこう刻まれていた。 『時間の消失店』 私たちはドアの前でしばらく立ち止まった。 互いを見つめ合い、無言の時間を少しだけ楽しんでから、二人揃ってその店の中へと足を踏み入れた。