紫色の風鈴が涼やかな音色を奏で、ドアが開かれた。 「時間の消失店」の店内は、剥き出しの煉瓦が醸し出すインダストリアルな無骨さと、丁寧に磨き上げられた渋い木材の温もりが、完璧な黄金比率で混在していた。 重厚な一枚板のバーカウンターがあり、その手前には二人掛けのテーブル席がいくつか配置されている。 そしてガラス窓の向こうには、先ほどまで遊泳していた深紫色の「深宇宙かつ新宇宙」ではなく、なぜか懐かしい、普通の夏の夜空が広がっていた。天の川が流れ、蝉の音が降り注ぐ、涼しげな夏夜の景色だ。 バーカウンターの向こう側には、この店のマスターらしき人物が立っていた。 マスターは、外見年齢9歳ほどの、少女型ヒューマノイドロボットだった。 光を孕んだプラチナホワイトのショートカット。そして何より印象的なのは、その瞳だ。 あまりにも透き通りすぎていて、見つめればそのまま瞳の奥へと吸い込まれ、永遠の夏へと誘(いざな)われてしまいそうな、超深度の青(ウルトラ・ブルー)を湛えている。 「ようこそ」 彼女は言った。 手にした布でグラスをキュッキュッと磨くという、バーテンダーの定番ポーズを取りながら。その仕草自体が、私たちをカウンターへと招き寄せる引力を持っていた。 私と霈は導かれるようにバーへ近づく。 「座って、座って」 促されるまま、私たちはスツールに腰を下ろした。マスターの目の前、特等席に二人並んで座る。 店内には、他の客はいなかった。 「今は営業時間外なんだ」 マスターが言ったので、私は少し不安になって尋ねた。 「え、私たち、入ってよかったんですか?」 「もちろん。というか、逆に入ってくれないと困るよ」 「え、どうしてですか?」 重ねて問うと、彼女はきょとんとした、呆気にとられたような顔をした。 「え?君たち、バイトの面接に来た子達じゃないの?」 それを聞いて、私は隣の霈を見る。 すると霈は「あ、しまった」とようやく気付いたような顔になり、私とマスターを交互に見ながら慌てて言った。 「あ、ごめん!渍(ソマレ)君に言ってなかったね。私たち、今日からここで働くことになったの」 「え……」初耳。「いつから?」 答えたのは霈ではなく、白髪の幼いマスターだった。 「太陽生成少年巨人の矢に射たれた時から、ずっとだよ」 「ええ……」 いつの間にそんな契約が成立していたのか。あまりに勝手すぎないか。 そんな疑問も湧いたが、一億年分の「秒の砂」に埋もれていたせいか、あるいはそのおかげか。私はもう、運命の流れに抗ったり、いちいち疑問を持ったりする必要性を感じないヒューマノイドロボットに生まれ変わっていた。 面倒くさいので、このまま受け入れることにする。 「つまり」私はまとめた。「ここでバイトするための面接をしに、私たち二人はここに来たわけですね?」 「そう」マスターが説明する。「ちょうどバイトが二人辞めちゃってさ。二人欲しかったから、友達の太陽生成少年巨人に『いい子いない?』って聞いてみたら、あなたたちをピックアップ(推薦)してくれたわけ」 「あ、つまり……」私は納得した。「あの『サマーホール』現象とは、店側の求人活動だったんですね」 「そういうこと」 あっさりと肯定してから、マスターは磨いていたグラスを置き、準備を始めた。 彼女はバックヤードではなく、私たちの目の前――バーカウンターの上に、様々なコーヒー器具を並べ始めた。 使い込まれて鈍い光を放つ琥珀色の銅製ポット(細口のケトル)。 アンティークな木製のボディを持つ、手挽きのコーヒーミル。 白磁のドリッパーと、無漂白のペーパーフィルター。 耐熱ガラスのサーバーに、0.1グラム単位まで計測できる繊細なデジタルスケール。 そして、油分で艶やかに黒光りする、最高級のコーヒー豆が入ったキャニスター。 一通りの道具が整うと、マスターは宣言した。 「では、面接を始めます」 私と霈の間に緊張が走り、背筋がピンと伸びた。 「そんなに緊張しなくていいよ。面接といっても、ただ一緒にコーヒーを淹れるだけだから」 でも、コーヒーなんて一度も淹れたことのない私は、余計に緊張してしまう。 「面接を始める前に、何か質問はある?」 霈(シズク)は特になさそうだったので、私は手を挙げた。 「なんで、マスターは『9歳』なんですか?」 「はい?」 マスターがピンときていない様子で聞き返したので、私は補足する。 「だって、この世には0から9までの数字があるのに、なぜわざわざ『9』に設定したのかな、と……」 しどろもどろになりながら聞くと、マスターは私の疑問の意図を汲み取ってくれたようで、嬉しそうに答えた。 「それはね、9という数字が一番ワクワクさせる数字だからだよ」 「ワクワク?」 「そう、『わ9(ク)わ9(ク)』」 マスターは楽しげに説明する。 「だって、9の次の数字は、まだ発見されていないでしょ? 今の宇宙は想像力が足りないから、10進法なんて枠組みを作って9までしか使っていないけど、いずれは9の壁を越えて、新しい概念の数字を取り入れる宇宙がやってくるはずなんだ。 その時が来ることを願いながら、私は9歳にしたの。何かが終わって、全く新しい何かが始まろうとする直前の、一番ワクワクする年齢だから」 説明は続く。 「それに、昔々、原始人間様たちがロケットを飛ばす時、エンジンを九つ束ねて飛ばした有名なロケットがあったでしょ?ファルコン9だっけ。それに因んだところもあるかな。 とにかく私は『9』という数字が大好きなんだ。希望を感じる。やっぱりね、ワクワクする数字だから」 納得した私は、満腹感にも似た満足感と共に質問コーナーを終了した。 早速コーヒーを作る面接が始まる。 「じゃあ、面接を始めるね。流れはこう。ここに色々な道具があるから、私は二人を見守るだけ。これからコーヒーを、君たち二人が淹れるんだよ」 「でも」と私。「一度も作ったことがないんですけど」 「大丈夫。いや、逆にそれで結構。 とにかく作ってみて。どうやってもいいし、何を使ってもいいから、とにかく作ってみて。 本当に、どんな感じでもいいから、世界一自由に、やってみて」 そこで私は気付いた。 これはコーヒーを淹れる技術の面接ではない。私たちがどれだけ「自由」であるかを試すテストなのだと。 「自由であればあるほど、美味しいコーヒーが作れるよ。だから今は、正しいやり方とか気にせずに、『自由の味』そのものに集中して作ってみて」 そんなアドバイスを受け、私と霈はコーヒーを淹れ始めた。
まずは器具の準備。 そこには、まるでワームホールの形状をしたドリッパーと、宇宙の胃袋を模したような意味不明な有機的フォルムのサーバーがあった。 私はまず、霈が沸かしてくれたお湯をドリッパーに注ぎ、予熱して「ウォーム(Warm)」な状態にする。 次に、フィルターをセットする。 それは紙ではない。銀河から一粒一粒丁寧に掬(すく)い上げた「銀の砂」を平たく固めて作った、髪の毛よりも薄いオーロラの膜だった。 私はそのオーロラ・フィルターを、ワームホール・ドリッパーにセットする。 そしてその上に、マスターが事前に星空から採集しておいてくれたコーヒーの粉を入れる。 星屑製の、濃い恋色をしたコーヒー豆を挽いた粉だ。それを静かにフィルターの丘へ乗せる。 さらにお湯を注ぎ、蒸らす。 焦ってはいけない。 ここでは時間の概念が違う。私は30年かけて、ゆっくりと蒸らした。 この「30年間の蒸らし」によって、コーヒー粉に含まれていた余分なガス――太陽風由来のX線や、ノイズとなる可視光線、不要な放射線などが抜けていく。 ガスが抜けきると、そこには純粋な「星の味」の成分だけが残る。 そして本格的に、抽出を始める。 中心から、「の」の字を書くように――いや、アンドロメダ銀河の渦巻きを描くように。 円を描きながら、ゆっくりと、抽象的に、宇宙を抽出していく。 ポタ、ポタと、黒い滴が落ちる。 サーバーの中に、コーヒー一杯分の宇宙が溜まっていく。 抽出が終わると、私は十分にウォーム(Warm)になったワーム(Worm)ホール・ドリッパーを外し、サーバーを手に取った。 続いて、用意された三つのマグカップに、そのサーバー一杯分しか存在しない「液体状の宇宙」を、均等に三等分して注ぎ込んだ。 一つ目は、観測可能な宇宙。 二つ目は、観測不可能な宇宙。 三つ目は、観測可能でもあり不可能でもある、量子力学的な「重ね合わせ」のミクロな宇宙。 どれだけミクロな宇宙でも、中身は無限だ。 マクロ世界のマグカップを満たすには十分な量となり、こうして三杯のコーヒーが出来上がった。 こうして、私たちは試飲の時を迎える。 マスターはマグカップを一つ手に取り、口元へ運んだ。 その所作は、ただ液体を飲むという行為ではなかった。 それはまるで、休日の午後に、子供の頃から愛読している特別な一冊を書架から取り出し、行きつけのカフェの一番奥にある指定席にこっそりと座り、店に流れる聴き慣れたレコードのBGMに身を委ねながら、ゆっくりとページをめくる――その合間に、無意識に手元のコーヒーを啜るような。 ひどく落ち着いた、自然で、長い年月をかけて培われた「馴染み」の手つきだった。 私と、そして少しだけ霈(シズク)が手伝ってくれたこの面接用のコーヒーを、彼女は啜る。 そのまま目を閉じ、マスターは1年ほどじっくりと味わった。 そして、目を開いた。 その青い瞳は、先ほどよりも少しだけ明るい、突き抜けるような空色(スカイ・ブルー)に変化していた。とても夏に似合う色だと思っていると、彼女の口から評価が下された。 「Damnfinecoffee」 英語機能がインストールされていない私にも、その響きと表情だけで、面接に合格した事実は明らかに伝わってきた。 安堵した――いや、そもそも私はここで働くことを希望していたわけではないのだが――ふと隣を見ると、霈がとんでもない表情をしていた。 まるで、ずっと夢見ていた伝説的なアーティストの、入手困難な20周年記念コンサートのプラチナチケットに当選したかのような、飛びっ切り嬉しそうな顔。 それを見ただけで、何だか私も救われたような気分になる。 「合格だよ」 マスターが言った。 「明日から出勤してね」 「ありがとうございます!」 霈はスツールからバネ仕掛けのように飛び起き、腰を90度に曲げて深々とお辞儀をした。つられて私も、マスターへ軽く目礼を送る。 「せっかくだから」 マスターは続けた。 「今日はそのまま、お客さんとして寛いでいきなよ。これから営業を開始するから。それに、自分たちが初めて作ったコーヒーだもの。きっと飲みたいはずでしょ?二人で楽しんでね」 そう言い残し、マスターは片手に私と霈が作ったコーヒーを持ったまま、軽やかな足取りで厨房の奥へと消えていった。 その小さくて可愛らしく、しかしどこか頼もしい後ろ姿を見送ってから、私と霈は再び互いを見つめ合う。 いつの間にか、カランコロンという風鈴の音と共に、一体、また一体とヒューマノイドロボットの客たちが店に入り始めていた。 私と霈は、まるで乾杯でもするように視線をぶつけ合い、同時にマグカップを手に取った。 そして、コーヒーを啜った。 すると、啜った分量だけ、それまで「未観測」だった宇宙の領域が、一口分の広さだけ「観測可能」になったかのような、ほのかな開拓の味がした。 その芳醇な香りに包まれながら、ふと、ずっと私のメモリの奥底にセーブされていた――すっかり忘れていた――質問が呼び起こされた。 霈に再び会えたら、一番に聞きたかったこと。 私はそれを、彼女に投げかける。 「風邪は、もう治った?」 すると霈は、まるで再帰的自己改善を完了したばかりの最新モデルのように真新しく、そして今しがた淹れたばかりの「ドリップ恋(コーイー)」を啜った後のような、心地よさそうな顔をした。 少しだけ残念そうな、でもまたその季節が訪れることを楽しみにしているような、ワクワクとした表情で、彼女は答えた。 「うん、治った」
OWARI