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第08話

デビュー戦


「戦闘準備完了」  洌(レイ)が宣言した瞬間、その声は不可解な物理現象を引き起こした。  彼を中心に空間そのものが共鳴板(スピーカー)と化し、最終処分場の隅々にまで明澄な響きが轟き渡る。  その音波は、当然ながら怪物の聴覚センサーをも直撃した。  満腹になり、住処へ戻ろうと背を向けていたGOMI子が、四つん這いの足をピタリと止める。  振り返ったその顔からは、先ほどまでの「満腹で幸せな赤ん坊」の笑みは消え失せていた。代わりに浮かんでいたのは、極道の幹部ですら裸足で逃げ出すような、凄惨かつ凶悪なしかめっ面。  何キロメートルも離れているにもかかわらず、怪物の視線は正確に洌の両目を捉えた(ロックオン)。その眼光から放たれる電波的な圧力(プレッシャー)だけで、洌のボディに高電圧の痺れが走る。  GOMI子は踵(きびす)を返した。  そして、膤(ユキ)を襲った時以上の、物理法則を無視した初速で突進を開始した。  最初は四つん這いだった。だが、加速するにつれて前傾姿勢が保てなくなったのか、あるいは赤ん坊という設定(ロール)すら忘却の彼方へ吹き飛んだのか。  怪物は立ち上がった。  100メートル級の巨体が、背筋をピンと伸ばし、オリンピックの短距離走者のような完璧なフォームで、全力疾走(スプリント)を始めたのだ。  ヨチヨチ歩きであるはずの巨大な赤ん坊が、アスリートの筋肉の躍動を見せつけながら地平線を切り裂いて迫ってくる。  それは「グロテスク」という言葉では生温い、不気味の谷の底を突き抜けた異様な迫力だった。  洌は、感情を持たないはずのヒューマノイドでありながら、思わず唾を飲み込んだ。生産されて初めて、「緊張」という感情サブルーチンが生成されるのを感じた。  その時、傍らで見守っていた岩頭の巨人が重々しく口を開いた。 「彼を知り己を知れば、百戦殆(あや)うからず」 「……は?」  諺(ことわざ)データベースにアクセスのない洌が聞き返すと、岩頭は解説モードに入った。 「GOMI子と戦うには、まずGOMI子が何者なのかを知る必要がある」 「それはそうだ。説明を頼む」  岩頭の低いベース音が、急速に情報を紡ぎ出す。 「GOMI子は本来、君と同じ剣闘士仕様のヒューマノイドだった。そして、強すぎた。彼が活躍した時代、このタイタンにおいて彼に傷一つつけられる機体は存在しなかったと言っても過言ではない。まさに無敵の王だった」 「……」  洌は迫りくるGOMI子から視線を外さずに、情報をインプットし続ける。 「だが、その強さが仇となった。剣闘士興行は莫大な金が動く賭博(ギャンブル)だ。勝率100%の存在は、賭けを成立させない。胴元も客も儲からない、経済的なバグでしかなかった。  それは単なる商売の問題に留まらず、『不確定性こそが宇宙の健全なエントロピーを維持する』という根本法則への冒涜とみなされた。所属事務所と賭博組織の利権争いの末、GOMI子の強制廃棄が決定されたのだ。だが、ここでも問題が起きた。GOMI子は、予想以上に頑丈すぎた」  GOMI子の足音が地響きとなって近づいてくる。  洌がチラチラと怪物の方を見る頻度が増えたのを察知し、岩頭は音声出力速度を一気に引き上げた。再生速度、1.0倍から120倍へ。 「(超高速再生)結局タイタン屈指の剣闘士たちを総動員した討伐作戦が展開されたが返り討ちに遭い全滅。しかし物量作戦で彼をこの最終処分場の奈落へ突き落とすことには成功した。ここは深すぎて這い上がることは物理的に不可能。つまり破壊ではなく封印を選んだわけだ。説明終了」 「……え?」  洌は呆気にとられた。 「これで終わりか?つまり、何が言いたい?」 「明確だろう」  岩頭は事もなげに言った。 「GOMI子は、桁外れに強い。そして、伝説的な存在だ。つまり、この対決は、今タイタンで最も注目を集める興行(イベント)になるということだ」 「……注目?」  事態の急展開に思考が追いつかない洌。  その時、頭上から微かな羽音が聞こえてきた。最初は蚊の鳴くような音だったが、次第に低く唸るような大合唱へと変わっていく。  見上げれば、プロペラ音と反重力エンジンの駆動音を響かせ、無数の飛行物体が降下してきていた。ドローン、取材ヘリ、個人用観覧ポッド。ありとあらゆる飛行機体が、最終処分場の空を埋め尽くそうとしている。 「なんだ、あの数は……」 「決まっているだろう」  岩頭が淡々と告げる。 「観客だよ」  観客を乗せたドローン群は、増殖する菌類のように空を覆い隠していく。  タイタン特有の、窒素とメタンに霞む陰鬱なオレンジ色の空は、瞬く間に機影によって塗り潰された。  そして、一斉に無数のスポットライトとヘッドライトが点灯する。  何万、何億という光の束が、暗黒の処分場へ降り注ぐ。  太陽が遠い点にしか見えないこの極寒の衛星に、まるで太陽そのものが水星軌道まで急接近したかのような、暴力的ですらある人工の昼が訪れる。  深海の底のように暗く、静まり返っていた最終処分場は、今や真昼のスタジアムと化していた。  ドローン群からは、さざめきが降ってくる。  一人ひとりの声は小さくとも、それが億単位で集まれば、大海の波濤(はとう)を間近で聞くような轟音となる。  期待、興奮、好奇心。  無数の感情(パラメーター)が混じり合った「熱気」の泡が、洌の聴覚センサーを飽和させた。  その光と喧騒の中、GOMI子が間近に迫っていた。  だが、その巨体がピタリと止まる。  まだ稼働している獲物がいるという食欲。自分の縄張りを荒らされた怒り。あるいは、この場所の支配者は自分だけで十分だという独占欲。  相反する感情(エラー)をCPU内で衝突させ、グロテスクに表情を歪ませていた巨大な赤ん坊は、蚊でも叩き潰すように洌へ振り上げていた掌(てのひら)を、空中で停止させた。  GOMI子は立ち尽くし、天井――光で埋め尽くされた空を見上げた。  眩しさに目を細めながら、ぼんやりとその光景を見つめる。  怪物の反応に呼応するように、観客たちのざわめきが一層高まる。  その時だった。  遥か上空から、一筋の流星が猛烈な速度で落下してきた。  オウムアムアのような長細い形状をしたそれは、隕石落下の如き勢いで処分場へ――洌と岩頭の目の前へと突っ込んでくる。  誰もが激突と爆発を予感した。  だが、その物体は地表ギリギリで姿勢制御スラスターを噴射。再使用型ロケットが着陸するように、見事な逆噴射で急減速し、空中で身を翻した。  エンジンノズルを下に向けて垂直に降下し、岩頭の目の前にふわりと着地する。  ジュウウウウウ……。  着地の熱で地面の氷が蒸発し、分厚い白煙が立ち込めた。  視界が遮られる。だが、次第に煙が晴れ、その全貌が露わになった。  そこに屹立していたのは、ロケットでもミサイルでもなかった。  それは、巨大なスタンドマイクだった。